2018年12月25日火曜日

ハイメ・トーレス


現地時間昨日、2018年12月24日午前8時15分、僕が心から敬愛し、またその人生の一部を共有することを許された数少ない真の巨匠、人類の遺産と呼ぶにふさわしい真の芸術家の一人、フォルクロリスタ/チャランゴ奏者のハイメ・トーレスが亡くなった。

まだ実感がない。アルゼンチンを中心に、彼が足跡を遺した世界各国のメディアが彼の死を報じているが、僕はまだ信じられないでいる。
彼の奥さんが、今月初旬に「ハイメが会いたがっている」と連絡をくれた際、僕はパタゴニアにいて、「クリスマスが終わったら少し仕事が落ち着くし、ハイメも退院しているだろうから、会いに行くよ、近所だし」と返事をしたばかりだった。
そして昨日も、「何やら質の悪い冗談が流れて来たよ。このフィエスタ明けに会いに行くから、よろしく」と書いた。

彼が遺したもの、彼の生涯について、ここで僕が語る必要はないと思う。
知らない方は先ず、是非その音楽を、その生き様を、数多ある録音やライヴ映像、テレビ出演時の動画など、何でもいいから一度味わってもらいたい。

彼と知り合ったのは今から3年半ほど前のこと。あのスピネッタの元パートナーとしても有名なモデル/歌手のカロリーナ・ペレリッティを通じてであった。
「おぉ、我が兄弟よ。カロリーナは本当に君のことが好きみたいだね。だから実はとっても会いたかったんだよ。まずは楽器を持ってすぐにでも来ておくれ。」電話口から聞える声に、涙が出るような感じがした。
以来、週に3度リハーサルに通った。1時間の練習のあとは、3時間のワイン・タイム。もちろん楽器を手放さず。豊かな時間だった。
沢山のことを教えてくれた。アルティプラーノ音楽の正に「生き字引」だった。
(彼の病気療養や僕の活動拠点の変化などもあって)決して期間は長くなかったが、40周年を最後にその歴史に幕を閉じたフェスティバル「タンタナクイ」での演奏を皮切りに、あちこちで何度もステージを共にした。今思うと夢のようだった。

初共演からほどなく、僕はハイメ・トーレスの正ケーナ奏者になった。非南米出身者ではもちろん初めてのこと。全ては彼の優しさと寛容さ、好奇心のおかげだと思う。
僕にとっては全てが学びの時だったので、あまり実感が湧かなかったのだが、ラ・プラタでの演奏会の時、楽屋で彼の奥さんに、「ハイメのケーナ奏者ということはね、タンゴで言ったらピアソラやレオポルド・フェデリコのヴァイオリニストということよ。ジャズならマイルス・デイヴィスのサックスよ」と言われてハッとした。
その公演の後、「今日、やっと一つになれたな。よかった。クエッカが最高にクエッカだった」と言って、ハイメは僕の額にキスしてくれた。僕にとっては洗礼のようなものだった。同じ事を僕にした人は他にディノ・サルーシとシルビア・イリオンドだけだ。

ブエノスアイレスの老舗タンゴ・ハウスでの公演の時。
開演前から酔っていた客が、僕がステージに上がるなり、「おい、チノ!(中国人の意)お前みたいなやつに何ができる?ガハハハ!」と大声で叫んだ。周りの客もくすくすと笑ったのが分かったが、僕は特段気に留めなかった。よくあることだ、と思っていた。
するとハイメがマイクを取り、「このマエストロは我々の国から最も遠い土地、日本から来た。日本人でありながら、自分の血と肉を我々の土地の音楽文化で満たすために、心から愛し、深く学んできた人だ」と言って、「さぁ、聴かせてあげなさい」とソロを2曲やらせてくれた。会場は熱狂し、満場のスタンディングオベーションを頂いた。ハイメはとても嬉しそうだった。その後、その客はワインを片手に「自分がとても恥ずかしい」と言って詫びに来た。抱き合い、その夜はこの上なく美しいものになった。

いくらでも彼と過ごした時間のことは書ける。どれも鮮明に僕に焼き付いている。自ら調理してくれたリャマのアサードの味、一緒に空けたワインの香りまで覚えている。

だからここまで書いても、まだ実感が湧かない。

大きな扉を開いてくれた。大切な指針をたくさんくれた。信じられないほどの優しさで僕を助けてくれた。そして僕をパチャママと結び付けてくれた最初の人…。

本当に感謝しかない。

僕は「ハイメ・トーレスの最後のケーナ奏者」になってしまったが、これからも僕のケーナの音は風になって彼と共にあってくれたらいいと思う。その意味で、これからもずっと彼のケーナ奏者でいようと思う。