2018年12月25日火曜日

ハイメ・トーレス


現地時間昨日、2018年12月24日午前8時15分、僕が心から敬愛し、またその人生の一部を共有することを許された数少ない真の巨匠、人類の遺産と呼ぶにふさわしい真の芸術家の一人、フォルクロリスタ/チャランゴ奏者のハイメ・トーレスが亡くなった。

まだ実感がない。アルゼンチンを中心に、彼が足跡を遺した世界各国のメディアが彼の死を報じているが、僕はまだ信じられないでいる。
彼の奥さんが、今月初旬に「ハイメが会いたがっている」と連絡をくれた際、僕はパタゴニアにいて、「クリスマスが終わったら少し仕事が落ち着くし、ハイメも退院しているだろうから、会いに行くよ、近所だし」と返事をしたばかりだった。
そして昨日も、「何やら質の悪い冗談が流れて来たよ。このフィエスタ明けに会いに行くから、よろしく」と書いた。

彼が遺したもの、彼の生涯について、ここで僕が語る必要はないと思う。
知らない方は先ず、是非その音楽を、その生き様を、数多ある録音やライヴ映像、テレビ出演時の動画など、何でもいいから一度味わってもらいたい。

彼と知り合ったのは今から3年半ほど前のこと。あのスピネッタの元パートナーとしても有名なモデル/歌手のカロリーナ・ペレリッティを通じてであった。
「おぉ、我が兄弟よ。カロリーナは本当に君のことが好きみたいだね。だから実はとっても会いたかったんだよ。まずは楽器を持ってすぐにでも来ておくれ。」電話口から聞える声に、涙が出るような感じがした。
以来、週に3度リハーサルに通った。1時間の練習のあとは、3時間のワイン・タイム。もちろん楽器を手放さず。豊かな時間だった。
沢山のことを教えてくれた。アルティプラーノ音楽の正に「生き字引」だった。
(彼の病気療養や僕の活動拠点の変化などもあって)決して期間は長くなかったが、40周年を最後にその歴史に幕を閉じたフェスティバル「タンタナクイ」での演奏を皮切りに、あちこちで何度もステージを共にした。今思うと夢のようだった。

初共演からほどなく、僕はハイメ・トーレスの正ケーナ奏者になった。非南米出身者ではもちろん初めてのこと。全ては彼の優しさと寛容さ、好奇心のおかげだと思う。
僕にとっては全てが学びの時だったので、あまり実感が湧かなかったのだが、ラ・プラタでの演奏会の時、楽屋で彼の奥さんに、「ハイメのケーナ奏者ということはね、タンゴで言ったらピアソラやレオポルド・フェデリコのヴァイオリニストということよ。ジャズならマイルス・デイヴィスのサックスよ」と言われてハッとした。
その公演の後、「今日、やっと一つになれたな。よかった。クエッカが最高にクエッカだった」と言って、ハイメは僕の額にキスしてくれた。僕にとっては洗礼のようなものだった。同じ事を僕にした人は他にディノ・サルーシとシルビア・イリオンドだけだ。

ブエノスアイレスの老舗タンゴ・ハウスでの公演の時。
開演前から酔っていた客が、僕がステージに上がるなり、「おい、チノ!(中国人の意)お前みたいなやつに何ができる?ガハハハ!」と大声で叫んだ。周りの客もくすくすと笑ったのが分かったが、僕は特段気に留めなかった。よくあることだ、と思っていた。
するとハイメがマイクを取り、「このマエストロは我々の国から最も遠い土地、日本から来た。日本人でありながら、自分の血と肉を我々の土地の音楽文化で満たすために、心から愛し、深く学んできた人だ」と言って、「さぁ、聴かせてあげなさい」とソロを2曲やらせてくれた。会場は熱狂し、満場のスタンディングオベーションを頂いた。ハイメはとても嬉しそうだった。その後、その客はワインを片手に「自分がとても恥ずかしい」と言って詫びに来た。抱き合い、その夜はこの上なく美しいものになった。

いくらでも彼と過ごした時間のことは書ける。どれも鮮明に僕に焼き付いている。自ら調理してくれたリャマのアサードの味、一緒に空けたワインの香りまで覚えている。

だからここまで書いても、まだ実感が湧かない。

大きな扉を開いてくれた。大切な指針をたくさんくれた。信じられないほどの優しさで僕を助けてくれた。そして僕をパチャママと結び付けてくれた最初の人…。

本当に感謝しかない。

僕は「ハイメ・トーレスの最後のケーナ奏者」になってしまったが、これからも僕のケーナの音は風になって彼と共にあってくれたらいいと思う。その意味で、これからもずっと彼のケーナ奏者でいようと思う。




2018年2月22日木曜日

生まれ変わる

 「ヌミノーゼ」という言葉がある。19世紀末から20世紀頭を生きた神学者ロドルフォ・オットーが定めた概念だが、(思わず畏敬の念を持って首を垂れたくなるような)神威=ラテン語の「ヌーメン」から採った造語で、そう名付けられる以前からこうした感情は遍く広く人類は持っていたはずのものである。先日、友人の口から久々にこの言葉を聞いて、なるほど僕が先のアルゼンチン・ツアーでした経験はこれだったかもしれない、と改めて思い返していた。
 今日の我々は、動物的な自然状態で生きること、また地球の声を感受し続けることが困難であるのと同様に、こうしたヌミノーゼ体験を持つこともまた極めて難しくなっている。科学なる宗教を教育という洗脳で叩き込まれ、体験より情報に価値が置かれる時代においては、尚更のことであろう。
 ここに先のアルゼンチン・ツアーで僕が体験したことを2つばかり書き残す。

 コルドバ州サン・マルコス・シエラスを訪ねた時の事である。アルゼンチンで最もヒッピー文化が根付いていることで名高いこの街には、つい最近までカトリックの教会すら無かった。また住人間の経済システムも独特で、物々交換の習慣がまだ生きている。「あなた、玉ねぎ要らない?私、あなたの家の卵が欲しいのよ」といった具合に。
 この街での演奏会に、先住民コメチンゴン族のシャーマン夫婦が聴きに来てくれた。彼らは医者であり、薬剤師であり、マッサージ師であり、占い師であり、教育者であり、呪術師である。見た目は何ともない、Tシャツ、短パン、ビーチサンダルか裸足で歩く。知的好奇心に溢れ、ゆっくり静かに話し、歯を出して笑い、吸い込まれそうなほど美しい目で僕を見る。
 終演後、近づいて来て「あなたを我が家に泊めたい」と申し出てくれた。丁度、宿泊場所をこれから決めようという時だったので、「是非お願いします」と即答すると、「ただ、トイレには便座がない。シャワーは水しか出ない」と付け加えられた。それを聞いて他のメンバーはホステルに消えていき、僕はシャーマンの家に泊まった。(便座やお湯のシャワーに加え、ベッドも無く、床に布を1枚敷いて寝たわけだけれども。)
 翌朝、目覚めるとそのシャーマン夫婦にこう告げられた。「あなたは聖者だ、シャーマンなのだ。数日前から星を見ていて、何かがあることは知っていた。あなただったのだね。我々は時を司るんだ。あなたは音と静寂…。これから我々の聖地にあなたを連れて行って、我々のスピリッツ、アンデスの地にあなたを受け入れてもらえるか尋ねなければ。儀式を行う。さぁ、準備して行こう。」
 まずは川岸でアサードをし腹を満たす。川の水で四肢を清め、裸足になる。その後、彼らの聖地「石の家」まで、片道2時間ほどかけて、砂利道、茨の道を歩いた。途中、野生の馬に出逢い話しかけたりしながら…。本来はこの道自体、余所者は足を踏み入れることすら出来ない。
 そうして石の家に辿り着く。太古の昔に起こった噴火によって自然が生み出した見事な建築である。その中に楽器や薬草、煙草、コカの葉などを広げ、儀式をした。やがて煙が満ち、音と共に野を巡っていく。様々なものを見た。そうして僕は無事、「音と静寂を司る聖者(シャーマン)」として彼らに、そしてアンデスの魂に認められることとなった。
 帰り道、すっかり日は沈んでいた。しかし、空には星が照り、月が見守り、川が全ての光を集めていた。あれほど明るい夜は初めてだった。

 
photo by Hernán Vargas

photo by Hernán Vargas

 パタゴニアの入口の街バリローチェを訪れた時のことである。この地での最初の演奏会が終わった後、楽屋に1人の紳士がやって来て、こう言う。「私はロレンソ・シンプソン、獣医だ。この地に世界で最も大きなコンドルの住処があるのを知っているかな?今日の演奏を聴いて、どうしてもあなたをそこに連れて行きたくなった。私はそこのコンドルすべてを見分け、世話している。ただ…そこは誰でも入れる所じゃないんだ、私有地だからね。まずはオーナーとマテ茶でも飲んで欲しい。」もちろん「行く!」と即答した。
 オーナーは典型的なガウチョだった。今でも野生の馬を手懐けて乗りこなしていると言う。マテを飲みながら、しばらく四方山話に花を咲かせつつ、僕は彼の信用を得ようとした。「ところでお前どこから来たんだ?日本?信じられないな、俺よりスペイン語が達者じゃねぇか。あはは、まぁ、入っていいよ」と相成った。
 それはカッパドキアのような、こちらも自然が生み出したあまりに壮大な建築だった。ここに今は約500羽のコンドルが暮らしている。少なく見積もっても7000年前から、ここはコンドルの家だという。
 いざ登ろうとした時、ロレンソさんが「先週腰の手術をしたばかりだから、今日はやめとく。気を付けて行って来てくれ。羽一つ見つけられないと思うけど、欲は出さず、安全第一で」と言い出した。僕とこのツアーの相方であるエステバン・バルディビアと2人きりで挑むこととなった。
 登り始めた途端、迷った。無数の棘を持つ木が僕らを拒んだ。そんな手強い草むらを抜け出した直後、信じられないものを僕は見つけてしまった。コンドルの亡骸である。あまりに強烈なメッセージに立ちすくんだ。左右の完全な翼、それに連なる骨…胴と頭はすっかり食べられていた。コンドルは翼を広げれば2.5mから3mにもなる。大きなものだ。
 それを布に包み、山登りを続けた。結果、約350本もの羽を拾うことになる。
 何も言わずに持ち去ることは出来ない、と判断した僕らは、コンドルとこの大地の魂に許しを乞うための儀式をした。シャーマンとして僕が初めて行った儀式はコンドルのためのもの、ということになる。
 毎日朝5時前に起き、日に700kmも移動して食事に出かけるコンドル(ちなみに生きた肉は口に入れない)は、ちょうど家に戻り始める時間で、そう頭数が多くいたわけではなかったが、5羽ほどが事の一部始終を見て、僕らを観察し、儀式の様子を聴いているのを僕は終始感じていた。
 おのずと涙がこぼれた。全身が風になり、僕の存在は消え、音になった。
 儀式を終え、傾く太陽に追われるように、山を下り始めた途端、1羽のコンドルが物凄いスピードで近づいて来て、僕の頭上5mほどを疾風の如く飛んで行った。あれは威嚇でも襲撃でもなく、メッセージ…僕は感謝の言葉を貰った気がした。
 望遠鏡でずっと様子を見ていたロレンソ獣医は開いた口が塞がらないといった様子で、「あなたは…一体何者なんだ?」と言う。長年ここを見守ってきた彼でさえ、亡骸には出くわしたことがないと言う。
 コンドルは唯一自ら死ぬ生き物なのだそうだ。毎日大変な距離を食事のために移動しなければならない…ある日、自らの死を悟るのだという。そして翼を閉じ、呼吸数と心拍数を次第に減らしていく。最後の力を振り絞り、住処の最も高い所まで登り、そこから翼を閉じたまま自ら落ちる。これがコンドルの最期なのだ。亡骸は仲間が食べる。あまりにも衝撃的な事実だ。

photo by Hikaru Iwakawa

photo by Hikaru Iwakawa

 今の僕は、世界のどこにいても、あの場所まで飛ぶことが出来る。Sumaj Pachamama, Sumaj Pachacamac, Padre Kuntur, Abuelo Kuntur...と彼らに声を掛け、呼び起こし、彼らの声に耳を傾けることが出来る。これを「生まれ変わる」というのかもしれない。

photo by Hikaru Iwakawa

 
 

2017年6月10日土曜日

6月21日の【無伴奏ケーナ・リサイタル 〔J. S. バッハ〕】と新作アルバムに寄せて

*以下の文章はTwitterに連投したものの加筆・修正版です。
*表題の通り、2017年6月21日に東京オペラシティ内「近江楽堂」にて開催される【岩川光 無伴奏ケーナ・リサイタル 〔J. S. バッハ〕】と、新作アルバム【Johann Sebastian BACH : 3 SUITES (BWV1007​-​1009​)】に寄せて書いたものです。

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意外にも、J.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」のチェロ以外での演奏で最初に聴いたのは、清水靖晃氏のサックス版だった。それを聴いて、リコーダーを通じて後期バロックを学んでいた最中だった少年期の僕は、先ずある種の「反感」を抱いた。(勿論、今となっては清水氏のアルバムも大いに楽しんで聴くことが出来る。賛否両論はあろうが、非常に芯の有る斬新な音楽的プロポーズだと思う。)

その直後、魂の師と仰ぎ心酔していた故フランス・ブリュッヘンによるリコーダー版の存在を知り、すぐに譜面と録音を手に入れた。中学の終わりか高校1年位だったろうか。その衝撃は今もなお新鮮な感覚として、僕の中にある。今から45年前の天才の仕事である。

それからと言うもの、このブリュッヘン版を、音楽的興味は無節操に広げながらも、いつも持ち歩く教科書のように拠り所とした。1~3番までしか彼は取上げなかったが、それで十分だった。先ずはリコーダーでひと通り学んだ。この時はまだ、ケーナで演奏しよう、とは想像もしていなかった。

色々あって、大学入学の頃、ケーナ奏者として自分を定めた。バロックとモダンのリコーダーを通じて学んだ技術をケーナに注ぎ込む作業を始めた。この頃、J.S.バッハのこの作品のケーナ版を、いつか僕が作らなきゃならないんだ、という漠然とした思いを抱き始めた。

J.S.バッハ自身の直筆譜が存在しないこの作品の編曲は、いつだって、誰がやったって、様々な困難と選択を強いられる瞬間が多々ある。マグダレーナ版とケルナー版を眺めながら、一般的な出版譜の信用ならなさを痛感することもしばしばだった。

ましてや、ケーナで、自分で演奏するのだ。作曲家との対話だった。彼が生きた時代、その前からの影響、当時の環境や習慣…考えるべきことは膨大にあった。おおよそ一般的にはかけ離れたイメージを持つケーナという楽器で演奏するからこそ、あらゆるフレージングに、アーティキュレーションに、全ての音符に、これらの知識が血肉化された形で反映されていなければならないと考えた。世界初はいつだって責任重大だ!

全く関係ないように見える色々な音楽をやりながら、だったので…結局10年かかってしまった。

ようやく去る今年の5月、スタジオに入り、3つの組曲の録音を仕上げた。完成版を聴き、恥ずかしながら、僕は自分の録音を聴いて初めて涙が出た。
300年前に書かれた音楽を、今日の自分自身の真の声にするなんて、容易なことではない。この作品を取上げてきた数多の演奏家に敬意を払いながら、今こうして、この作品を自分の音楽に出来たことに、素直に喜びを覚えた。そしてJ.S.バッハの偉大さ、何よりも音楽の尊さを改めて知った。

だから今は言える。「ケーナでやる意味とか、聴く前から余計なことを問わず、とにかく聴いてくれ。ここに音楽があるから」と。

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【岩川光 無伴奏ケーナ・リサイタル 〔J. S. バッハ〕】
2017年6月21日(水)18:30開場/19:00開演
近江楽堂 
3,000円/当日3,500円
予・問✉otonomado@gmail.com



2017年6月7日水曜日

ここひと月半ほどのこと

ここひと月半ほど旅が続いた。

4月17日(正確には18日未明)から25日まではメキシコはベラクルス州の街ハラパにいた。国際ケーナ・フェスティバルに出演するためであった。
4月25日から5月16日まではアルゼンチンのブエノスアイレスにいた。Facebookに「ブエノスアイレスに行くよ」と投稿した途端、出演依頼が殺到し、ついに1日も休みがなかった。この間に新作アルバム『Johann Sebastian BACH : 3 SUITES (BWV1007​-​1009​)​』(J. S. バッハ「無伴奏チェロ組曲1~3番」のケーナ版)の録音も仕上げた。
そこから日本に戻り、諸々の雑務に追われたのち、5月25日から31日まで、ピアニスト/作曲家の伊藤志宏氏とジャパン・ツアーを行った。
6月1日に拙宅に戻り、久々に三匹の愛猫たちと戯れようとしたが、彼らはしばらくの間、どこかよそよそしかった。

旅の中で起こった全ての出来事を事細かに書くことは、ここでは許されないだろう。しかし一つ言っておかなければならない大切なことは、これらの旅は常に美しい人間の関係性で以て成り立っていた、ということである。

先ず、メキシコでのフェスティバルへの参加、それに続くアルゼンチン滞在と新作録音のために、多くの知人、友人、ファンの方々が「協賛」という形で惜しみない応援を下さった。この助けがなければ実現し得なかった。この場を借りて改めて御礼申し上げたい。

メキシコのフェスティバルでは、今日の幅広いケーナ演奏シーンを代表する世界最高峰の奏者たちが集結した。この規模のケーナ・フェスティバルは他に例がなく、出演者の質は間違いなくトップである。その中で僕は、唯一の日本人どころかアジア圏からはただ一人の出演者でありながら、ソロ部門の取りを務める栄誉を授かった。やるべきことは出来たと思う。主催者やプロデューサー、会場にいた方々からは、「このフェスティバル中、最も美しい静寂に会場が包まれた」「ケーナ演奏史上最高峰」「誰も予想だにしなかった別次元の演奏」など、身に余るお言葉をたくさん頂いた。また、来年の同フェスティバルへの招聘も即座に決定し、ペルーやコロンビアの音楽祭への招待、マスタークラスなどの依頼が相次いだ。

しかしステージを一旦降りれば、ただの人である。ここからが人間同士の付き合いというものである。ホテルでは他の出演者との酒宴が毎夜毎夜続いた。初日は10人ほどで缶ビール200本とテキーラ2本を空にした。そんな夜が4日ほど続いた。そりゃ、旅立ちの時には涙がこぼれるわけである。

ブエノスアイレスはすでに我が第二の故郷と呼ぶにふさわしい街である。20歳からの時間の約半分をこの街で過ごしている。僕が話すスペイン語は今や完全にポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)のそれである。しかし、僕が逃げるようにこの地を離れた2015年12月に起こった政権交代から、明らかに大部分の国民の実生活は大打撃を受けている。(僕はそれ以来、日本とアルゼンチンを、文字通り「行き来する」生活を送っている。)皆、物価高騰に必死に耐えている。そんな状況でも、ありがたいことに、僕のライヴには必ずお客さんがいる。出演したライヴはどれもほぼ満員御礼であった。

ブエノスアイレスでは2つの作品を録音した。
一つは例のJ. S. バッハ「無伴奏チェロ組曲1~3番」である。すでにデジタル配信は開始されていて、6月21日に近江楽堂で開催されるリサイタルでCD販売開始である。
もう一つはMauro Panzillo(テナー・サックス)、Emmanuel Rotondo(エレクトリック・ギター)、Francisco Jaime(ドラム)から成るトリオ「P∆JARO」とのアルバム。彼らは云わばエレクトリック/アンビエンタル/フリー・ジャズなどにカテゴライズされるような音楽をやっているプロジェクトだが、「自分たちが生まれた大地を、僕らも予想だにしなかった文脈で奏でる音が欲しい」とのことで、先ずはライヴに僕をゲストで呼んでくれた。1、2曲かと思いきや、ライヴ1本丸ごとだったのには驚いたが、非常に美しく鳴っていて、彼らは大満足し、即、レコーディングのオファーもくれ、このセッションと相成った。無論、録音も1、2曲なわけもなく、アルバム1枚分を2時間ほどで録った。

充実の旅から日本に戻ると、瞬く間に自分が委縮していくのが分かる。外から見ると、この国の素晴らしさも愚かしさも目立ってしまうのである。何よりも先ず、現実がのしかかってくる。正直に言ってしまえば、元気がなくなる。

が、今日まですこぶる調子がいいのは、伊藤志宏氏とのツアーのおかげである。
現状、僕が独自のプロジェクトとしてデュオをやっているピアニストは彼だけである。常々、「伊藤志宏はピアノという機械から人間の声を引き出す稀有な存在だ」と言ってきた。このツアーでも、彼の十指に撫でられるピアノは、人間の心の機微を鮮やかに歌っていた。
良いツアーの後には、聞こえ方が変わっている。耳が変わっている。考え方も少し変わっている。要するに、それ以前の自分ではなくなっている部分があるのであろう。
志宏氏と東京(関東)以外で演奏するのは、これが初めての機会だった。僕らがやっている音楽は僕らの音楽である。作曲も僕ら、演奏も僕ら。観客の方々が初めて聴くものばかりである。聴いたことのない音楽を聴くことは、演奏することより、大きなチャレンジではないかといつも思う。
だからこそ、このツアー中、幾度となくお客様の集中力と熱意、そして彼らが作り上げる静寂に感謝した。
終演後、お客様の顔がとても素敵になっていた。何かが開かれたように、目が煌めいていた。こういう時、人間は美しいと思う。

そう、人間は美しい。世界中のどこへ行っても、良い時間を持てば、そう感じる。
僕は、「音楽は世界を平和にする」とか、「音楽は国境を越える」とか、そういう類の言葉は嫌いで、そんなことは全く信じていない。僕の実感としてあるのは、「音楽は時々、人間の心を解きほぐす」ぐらいのことである。しかし、それがとても大切で尊い。

あとは勘違いしないことだな。
音楽家が偉いんじゃない。音楽が凄いんだ。

2017年4月7日金曜日

20年

ケーナを始めて20年になった。
この楽器を吹く悦びは、初めて手にした時のままの純度で、今も僕を捉え続けている。
一方で、演奏家としての僕は、益々貪欲になっている。つまり、逆説的な言い方になるが、上手くなればなるほど、下手になる、そんな気分がある。一つの問題を解決すれば、今まで見えなかった課題が見えてくる。その度に新たな要求が増える。まぁ、そういうものなのだろう。

今更ここで、この楽器との馴初めや僕自身の出自をドラマティックに語って、説得力を持たせようとは思わないが、出逢いからこれまでを少し振り返っただけでも、沢山の幸運が思い出される。

道半ば、とよく言うが、僕にはあまりその実感がない。定められたゴールなど端から存在しない。そもそも、道すらないところを手探りで彷徨っているといった様子だ。

生涯現役を公に宣言するような見苦しい真似はしたくない。やめるべき時にやめる。演奏家としての僕に責任というものがあるとしたら、その判断を任されていることぐらいであろう。

20年間ほぼ毎日、この楽器を手に取り、吹いている。
木や竹といった自然の素材で出来ているから、気候の変化も常に影響するし、激しい演奏を立て続けにこなした後などは楽器に疲れが出るものだから、1日ぐらい休ませてやる日もあるが、2日吹かないでいると僕の体調が悪くなる。身体に悪い気でも溜まっているように優れなくなる。面白いものである。

9歳でこの楽器を初めて手にした。
色々あって、家で練習出来るタイミングは限られていたので、よく見計らって音を出さねばならなかった。それでも毎日触った。夜中など、音を出せない時は、歌口のところに耳を持っていき、指孔を開けたり閉じたりしながら、筒の音を聴くのが好きだった。異世界へ誘うような、何とも豊かで美しい音がする。この楽器はこういう音で鳴りたがっているんだ、と教えられているような感じがする。

まだまだである。
しかしそれでも、僕のケーナの音はすでに、僕の声より僕の声に近い。





2017年2月25日土曜日

解釈

Michael EndeがJoseph Beuysとの対話(『芸術と政治をめぐる対話』)の中で、こんなことを言っている。
「なにかある作品を書きはじめると、最後がどうなるのか、私にはまるでわからない。私としては、そのときそのときに書きながら、決定するだけなのです。力の及ぶかぎり適切に、可能なかぎり正直に、決定しようとするだけなのです。まちがっていても、まちがっていなくても、すべてをひっくるめて。」

解釈することにはいつも、「"こちら"側へ引っ張ってくる」という恣意性が伴う。解釈には常に、解釈する側の恣意性が含まれ、また、そうした恣意性が含まれないならば、それは解釈ではない。客観的であろうとする意図には主体がある。

常々、僕は、先ず、生き方として音楽家を選んでいて、音楽家としては演奏家というよりむしろ作曲家である、と言っている。作曲家としての僕が要求することを、演奏家としての僕は、最低でも及第点程度には実現できなくてはならない、というだけのことである。また作曲家としての僕は、僕自身の生を通して見た世界を、音に落とし込むというか、音として描くような感覚をいつも持っている。この世界の大部分が言葉にならない。そんな時、音の方が、僕にとってはよっぽど役に立つ。だから、僕が書いた曲を演奏する時の僕は、僕が生きる世界そのものを音にすることを目指す、そういう感覚がある。そうして最終的に、何も創り出していない、という思いに至る。だから作り続けるのかもしれない。

そうしたわけで、先に引いたEndeの言葉には心底共感する。僕の音楽作りも正しく同様である。
自分自身が生きる世界のありのままを出発点に、何かを表現しようと試みる時、世界は定義も解釈も拒み、捉えようのない、測り知れない存在として立ち現れる。そこに飛び込むのである。まずはその一歩目の踏み出しが大きな挑戦である。あるいは突発的な、偶然のような。あとはずるずると引きずり込まれるか、二歩目、三歩目と恐る恐る闇の中を行くか…行きつく先など見えるはずがない。集中力の途切れか何かでもって、とりあえずの諦めが付く程度には体裁を整え(ここは職人技!)、筆を置く。仕方がないのである。生そのものが果てしない音楽であるかもしれないのに!僕の場合はそうなのである。

作者に彼の作品の解釈を求めることは、拷問に等しい。言葉なら要約も職人的技能の一つであろうが、もともと言葉にならぬものを言葉にせよという時点で、無理がある。また、音楽なり美術なり、言葉にならぬものを表現しているはずなのに、ぺらぺらと口から出任せで解説する人や、そんな言葉がないと作品を他人に提示することすらできない作家が少なからずいることも、僕は好ましくないと思っている。少なくとも僕はしたくない。

解釈はご勝手に、である。
僕の音楽は、聴いてくれさえすればそれでいい。

2017年2月18日土曜日

行動する知識人

行動する思想家や知識人が好きだ。
僕は音楽家だから、僕自身、音楽を作ることは僕なりの「行動」のスタイルだと信じている。

年来、座右の銘を問われれば、迷わず、大森荘蔵の『哲学的知見の性格』の結びの言葉を挙げている。
「元来、生きることは、知ることの様式ではあるまいか。」
新しい手帳を買うと、見返しにこの言葉を書くのが、年に一度の習慣となっている。
大森はまた『ことだま論』の中でも、「生きる、とは、知覚的に生きる、ことなのである」と書いているから、この考えは、哲学者としての彼の生涯の大部分に通底してあったのだろうと思う。

この言葉に出逢うまで、生は死を以って証明される、と考えていた。
常に現在進行の生の営みの中で、その在り様そのものを、それが生であることを、いかに証明し得るだろうか。死を以ってして、なるほど生きていたのだ、と想起され、語られるのではないか。

いや、生は実感として、確かにある。そしてそれは、あらゆる「知ること」に強く結びついている。それどころか、知ることによって実感される、と言える。

Mohandas Karamchand Gandhiは
「Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.(明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ。)」
と言った。

ここで誤ってはいけない。死は知ることの目的ではない。死は生の証明にはなり得るかもしれないが、知の証明にはなりようがない。死は万人に等しく訪れる出来事でしかなく、死そのものがどんなものかは、生のうちにある我々は経験としては一切語り得ない。生は生によって、つまり知ること、学ぶことによって、私自身には証明され、行動(表現)によって我が生は他者と共有される。

ゆえに、虚無主義はとても知的な態度とは言えず、無意味であり、時に有害ですらある。殺戮を、独裁を、あらゆる不誠実と不正義を許してしまうのも、虚無主義ではないか。三木清も「もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立ち直らねばならない」と書き、当時のインテリジェンスのあり方を危惧しているが、この状況は今日もなお続いてはいないか。

だから僕は、虚無主義的な態度に至る話題や会話には、何ら興味を持たない。学ばず生きること、知ることを放棄した生き方を、生きていると、どうして見なし得ようか。

学び続ける人の表現には生の証明がある。このような人を僕は知識人と呼び、その生き様をアルテ(芸術・業)として受け止めたい。
僕は、行動する知識人が好きなのだ。

2017年2月9日木曜日

新たなプロジェクト

今月23日から31日までスペインに行っていた。
今回の滞在の第一の目的は、新たに始動するEsteban Valdiviaとのプロジェクトのリハーサルであった。
更に、この短い期間中、3日間はカンタブリアの海を眺めるアストゥリアスに滞在していた。これはこのプロジェクトの、いわばデビュー公演を、地元のミュージシャンであるPablo Canalísを加えた3人編成で行うためであった。この公演は結果として大成功で、見込み100名、定員120名のところ、170名以上の観客が集まった、と主催者は喜んでいた。そんなことより僕は、まず会場(Centro de Cultura Instituto Antiguo de Gijón)の音響の素晴らしさを大いに愉しんだ。あのような会場に日本で巡り合うのは容易ではない。空間も含めて楽器なのだ、ということを痛感させられる。

ところで、このEsteban Valdiviaという男は本当に面白い。
彼はミュージシャンである。元々はプログレッシブ・ロックのドラマーであったが、今は専ら「パーカッショニストな笛吹き」(自称)であり、「ドラムは最悪な楽器だ」と言って憚らない。
また彼は考古学者であり、南米、とりわけエクアドルの海岸地域をフィールドとするプレイスパニカ時代の音楽遺跡研究者であり、人類学者でもある。そしてまた、こうした考古学者としての仕事の中で接した楽器のレプリカ製作の第一人者でもあるから、楽器製作家であり、陶芸家でもある。
その上、自分で拵えた物をどこでも売りさばくことに極めて長けた才を持っている商人でもある。(事実、数年前は露天商をやったりもしていた。)
彼は今、マドリッドに暮らし、大学の博士課程に籍を置いているが、エクアドルに家を建てている最中で、10月にはそちらに引っ越すことにしているそうだ。
そして彼はネイを吹くスーフィーである。
彼の奥様はデザイナーであり、考古学者でもあって、こちらも同様のフィールドの遺跡研究に従事し、デザインと言語学の面から紐解こうとしている。Estebanの商売には彼女のデザインが必要不可欠となっている。

という男とこれからプロジェクトを始める。
先ずは11、12月にブラジル、アルゼンチン、チリ、エクアドル、グアテマラを跨ぐツアーを敢行しようと計画中である。

僕らの音楽作りは、僕にとってすこぶる刺激的で、面白い。新たな音楽的地平を拓く道標となるだけでなく、音楽観そのものの転換すらもたらす可能性を持つ経験だ、とどこかに書いたが、これもあながち大げさな表現ではない。

先ず、たくさんの楽器をテーブルに並べる。
3,000年以上前に用いられた「Vasija Silbadora(水差しホイッスル)」のレプリカから、マヤのトリプル・フルート、アマゾンのシャーマンが用いていた人骨のケーナ、ペリカンの骨の笛、コンドルの羽軸など南米大陸を故郷とする楽器たちをはじめ、タイのケーンやトルコのネイなんかも並ぶ。僕がいつも使っているケーナをこれらの楽器と一緒に置くと、まるで西洋の楽器に見えるから不思議である。
そうして並べた楽器を一つ一つ手に取り、演奏してみる。これらの中には、すでに元々の奏法が分からなくなってしまったものも少なくない。そういう時はEsteban曰く「楽器が教えてくれるのを待つ」しかない。そもそも楽器というのは、楽器自身が鳴りたいように鳴らしてくれる人の手元に辿り着くのを、じっと待ち侘びているようなところがある。
そうしてやがて静寂を破って音が鳴り始める。小さなアパートのキッチンに森が立ち現れたりするから面白い。
楽譜など用いようがない。和音を奏でる楽器(マヤのトリプル/ダブル・フルートなど)は、その時代に生きた人々の音楽、とりわけ和声感覚を我々に教えてくれる。西洋平均律にすっかり飼い慣らされた今日の我々にとっては新たな音宇宙である。「不協和音」などという表現は、この意味で、音楽的知見の狭さを露呈するに過ぎない。
演奏し、録音する。それを確認し、練り上げて、構築していく。作曲家としての僕は、「どこに辿り着くか予想だにできない新鮮な感じを保ちたい」などと思いつきを言っては、緩やかに方向性を示してみる。そしてまた、練り上げる。
徐々に楽器の演奏は、「遊び」という元来の姿を取り戻す。楽器に誘われ、時空を旅するような感覚がある。

リハーサルの様子から、少し僕らの音楽作りの方法を説明すると、ざっとこんな感じである。

音楽は言葉にならない。言葉にならないから音楽なのである。僕らの音楽もまた、体験してもらう他ない。
いつか、このプロジェクトでの公演が日本でも実現出来たら、と願っている。

2017年1月14日土曜日

基礎

僕が演奏するケーナは、「メソッドがない楽器」と言われる。
かなり初歩的な演奏技術から、遍く広く流布した、ないしは共通の、確立された奏法がないため、そう言われるのも致し方ないのかもしれない。また、このような状況は、特定の民俗ないし社会の文化的背景が色濃く反映されている諸楽器についても、同様に見受けられるだろう。

(注:今日の音楽的状況を鑑みれば、西洋の十二平均律音楽の呪縛から一切逃れられている音楽に巡り合うことの方が困難である。非常に多くの国々や地域で、あらゆる楽器が、その音色に還元され、楽器それ自体として聴かれる時、その奏法の基礎が、ある程度、十二平均律に置かれるのは免れない状況にある、と言わざるを得ない。以後、これを前提として話を進める。)

しかし、メソッドそれ自体が、その楽器の演奏の基礎なのではない。また、多くの教本が世に出されている楽器についても、いずれの教本もその楽器の演奏について万能な「マニュアル」にはなり得ない。楽器演奏におけるあらゆる問題は、常に創意工夫を持って対処されなければならない。

前述のような「メソッドがない楽器」は、各々の演奏における問題や課題に則って、奏者一人ひとりがメソッドを作り上げるところから任されているのだ、という意識を持つより他ない。その時、あらゆる楽器の、今日までに試されてきた演奏法が参考になり得る。

例えば、僕のケーナ奏法はその基礎を、主にバロックとモダンのリコーダー奏法に大きく依拠しているが、当然のように横吹きのフルートやクラリネットの奏法も参考にし、必要に応じて取り入れている。また、細かな、しかし非常に重要な手や手首、腕の用い方については、ヴィオラ・ダ・ガンバの奏法まで応用されているし、身体の在り方は武道から多くのヒントを得ている。

少し話は逸れるが、先日リハーサルの最中に、「本当に装飾が少ないね」と言われ、自分の演奏と練習法について気付かされる点があったので記しておこう。
リハーサルはまず、音楽の構造を演奏する全員で確認する場として必要なわけだから、基本的に、装飾は必要最低限、ないしは一切付さないようにしている。日頃の基礎練習も当然、同様である。また、僕の演奏スタイルは、他のケーナ奏者と比較しても、(余計な)装飾が少ないかもしれない。これは僕の、音(色)そのものへのこだわりのためであるが、こうした趣味的な部分は、常に変化し続ける。
しかし、楽器演奏の修練において、特に(ケーナのように)西洋十二平均律の演奏を容易にするように設計されていない楽器の練習においては、これは非常に重要な習慣ではないかと思う。(ヴィブラートや経過音なども含む、広い意味での)装飾を前提とした練習は、奏者にしばしば「悪い癖」を植え付ける。よって、ケーナについて言えば、非常に多くの(ないし、ほとんどの)奏者が、表面的には高度に見えて、しかし「正確な音程が取れない」という状況に陥っている。
装飾は(文化的背景はありつつ)あくまでも奏者個人の嗜好、それ故にその人の音楽そのものが問われる部分であるから、優れた演奏家たちに(正しく「真似をする」ことによって)学ぶところは大きい。しかし、「それしかできない」という状況は好ましくない。

話を戻しつつ、本文を結ぼう。
優れた基礎は、幅広い応用力(応用可能性)を持つ。基礎の良し悪しはそこで量られると言っても過言ではない。
また、楽器の演奏における基礎は、あくまでも奏者個人にとっての基礎である。つまり、その奏者にとって十分に血肉化され、常にその表現を助けてくれるものである限り、いくら幅広くても、どれほど深くとも、一向に構わないのである。

日々、探究は尽きない。

2017年1月6日金曜日

祖母の訃報

昨夜、新年の初仕事(とある舞台のための音楽のレコーディング)を終え帰宅すると、長年病床にあり、先月から危篤状態が続いた祖母が、亡くなったと報せを受けた。
今、僕の胸中に残る後悔はまず、「元気なうちに、あのたまらなく美味いけの汁と人参の子和えの作り方を教わっておけばよかった」ということである。しかしもう遅い。記憶を噛みしめるか、記憶を頼りに再現してみる他ない。

その祖母の生涯の伴侶である祖父は、齢85にして雪道も自ら車を走らせるほど元気だが、祖母の存在が生き甲斐であったことは間違いなく、その落ち込みは想像に難くない。
祖母が倒れてから、祖父は家事を覚えた。それまでは、家の中のことは一切していなかったと思う。少なくとも僕は見たことがなかった。
彼らの趣味は夫婦そろっての旅行だった。暇を見つけては、あちこちへ出かけていた。祖父は根っからのどけちだが、旅行には毎年予算を設けていたという。
祖母は倒れる少し前に、どうしてもある所へ旅行に行きたがったという。どけちな祖父は財布のひもを締め、渋ったが、祖母は自分の保険を解約して強行した。それが最後の夫婦旅になった。

祖父はその後、僕と一緒に酒を呑む度、同じようなことを繰り返し言うようになった。
つまりそれは、「元気なうちに、もっと楽しませてやればよかった。お金を使ってあげればよかった」ということだった。

その願いも、もう叶わない。

祖母の死について、今はまだ実感が湧かない。まだ何も見ていないのだから当然である。
しかし、もう長いこと覚悟が出来ていたから、報せに際して特段大きな驚きもなかった。
それは恐らく、先月、心臓が止まった状態で病院に緊急搬送された時に、「祖母危篤」の報を受け、翌日すぐに会いに行ったからだと思う。人工心肺装置によって辛うじて命ある祖母は、その生の証明である脳と、唯一持つ意思伝達の道具である瞼でもって、僕の声に必死に反応し、涙していた。それが最後に交わした「言葉」であった。