行動する思想家や知識人が好きだ。
僕は音楽家だから、僕自身、音楽を作ることは僕なりの「行動」のスタイルだと信じている。
年来、座右の銘を問われれば、迷わず、大森荘蔵の『哲学的知見の性格』の結びの言葉を挙げている。
「元来、生きることは、知ることの様式ではあるまいか。」
新しい手帳を買うと、見返しにこの言葉を書くのが、年に一度の習慣となっている。
大森はまた『ことだま論』の中でも、「生きる、とは、知覚的に生きる、ことなのである」と書いているから、この考えは、哲学者としての彼の生涯の大部分に通底してあったのだろうと思う。
この言葉に出逢うまで、生は死を以って証明される、と考えていた。
常に現在進行の生の営みの中で、その在り様そのものを、それが生であることを、いかに証明し得るだろうか。死を以ってして、なるほど生きていたのだ、と想起され、語られるのではないか。
いや、生は実感として、確かにある。そしてそれは、あらゆる「知ること」に強く結びついている。それどころか、知ることによって実感される、と言える。
Mohandas Karamchand Gandhiは
「Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.(明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ。)」
と言った。
ここで誤ってはいけない。死は知ることの目的ではない。死は生の証明にはなり得るかもしれないが、知の証明にはなりようがない。死は万人に等しく訪れる出来事でしかなく、死そのものがどんなものかは、生のうちにある我々は経験としては一切語り得ない。生は生によって、つまり知ること、学ぶことによって、私自身には証明され、行動(表現)によって我が生は他者と共有される。
ゆえに、虚無主義はとても知的な態度とは言えず、無意味であり、時に有害ですらある。殺戮を、独裁を、あらゆる不誠実と不正義を許してしまうのも、虚無主義ではないか。三木清も「もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立ち直らねばならない」と書き、当時のインテリジェンスのあり方を危惧しているが、この状況は今日もなお続いてはいないか。
だから僕は、虚無主義的な態度に至る話題や会話には、何ら興味を持たない。学ばず生きること、知ることを放棄した生き方を、生きていると、どうして見なし得ようか。
学び続ける人の表現には生の証明がある。このような人を僕は知識人と呼び、その生き様をアルテ(芸術・業)として受け止めたい。
僕は、行動する知識人が好きなのだ。
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