2017年2月25日土曜日

解釈

Michael EndeがJoseph Beuysとの対話(『芸術と政治をめぐる対話』)の中で、こんなことを言っている。
「なにかある作品を書きはじめると、最後がどうなるのか、私にはまるでわからない。私としては、そのときそのときに書きながら、決定するだけなのです。力の及ぶかぎり適切に、可能なかぎり正直に、決定しようとするだけなのです。まちがっていても、まちがっていなくても、すべてをひっくるめて。」

解釈することにはいつも、「"こちら"側へ引っ張ってくる」という恣意性が伴う。解釈には常に、解釈する側の恣意性が含まれ、また、そうした恣意性が含まれないならば、それは解釈ではない。客観的であろうとする意図には主体がある。

常々、僕は、先ず、生き方として音楽家を選んでいて、音楽家としては演奏家というよりむしろ作曲家である、と言っている。作曲家としての僕が要求することを、演奏家としての僕は、最低でも及第点程度には実現できなくてはならない、というだけのことである。また作曲家としての僕は、僕自身の生を通して見た世界を、音に落とし込むというか、音として描くような感覚をいつも持っている。この世界の大部分が言葉にならない。そんな時、音の方が、僕にとってはよっぽど役に立つ。だから、僕が書いた曲を演奏する時の僕は、僕が生きる世界そのものを音にすることを目指す、そういう感覚がある。そうして最終的に、何も創り出していない、という思いに至る。だから作り続けるのかもしれない。

そうしたわけで、先に引いたEndeの言葉には心底共感する。僕の音楽作りも正しく同様である。
自分自身が生きる世界のありのままを出発点に、何かを表現しようと試みる時、世界は定義も解釈も拒み、捉えようのない、測り知れない存在として立ち現れる。そこに飛び込むのである。まずはその一歩目の踏み出しが大きな挑戦である。あるいは突発的な、偶然のような。あとはずるずると引きずり込まれるか、二歩目、三歩目と恐る恐る闇の中を行くか…行きつく先など見えるはずがない。集中力の途切れか何かでもって、とりあえずの諦めが付く程度には体裁を整え(ここは職人技!)、筆を置く。仕方がないのである。生そのものが果てしない音楽であるかもしれないのに!僕の場合はそうなのである。

作者に彼の作品の解釈を求めることは、拷問に等しい。言葉なら要約も職人的技能の一つであろうが、もともと言葉にならぬものを言葉にせよという時点で、無理がある。また、音楽なり美術なり、言葉にならぬものを表現しているはずなのに、ぺらぺらと口から出任せで解説する人や、そんな言葉がないと作品を他人に提示することすらできない作家が少なからずいることも、僕は好ましくないと思っている。少なくとも僕はしたくない。

解釈はご勝手に、である。
僕の音楽は、聴いてくれさえすればそれでいい。

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