2017年1月6日金曜日

祖母の訃報

昨夜、新年の初仕事(とある舞台のための音楽のレコーディング)を終え帰宅すると、長年病床にあり、先月から危篤状態が続いた祖母が、亡くなったと報せを受けた。
今、僕の胸中に残る後悔はまず、「元気なうちに、あのたまらなく美味いけの汁と人参の子和えの作り方を教わっておけばよかった」ということである。しかしもう遅い。記憶を噛みしめるか、記憶を頼りに再現してみる他ない。

その祖母の生涯の伴侶である祖父は、齢85にして雪道も自ら車を走らせるほど元気だが、祖母の存在が生き甲斐であったことは間違いなく、その落ち込みは想像に難くない。
祖母が倒れてから、祖父は家事を覚えた。それまでは、家の中のことは一切していなかったと思う。少なくとも僕は見たことがなかった。
彼らの趣味は夫婦そろっての旅行だった。暇を見つけては、あちこちへ出かけていた。祖父は根っからのどけちだが、旅行には毎年予算を設けていたという。
祖母は倒れる少し前に、どうしてもある所へ旅行に行きたがったという。どけちな祖父は財布のひもを締め、渋ったが、祖母は自分の保険を解約して強行した。それが最後の夫婦旅になった。

祖父はその後、僕と一緒に酒を呑む度、同じようなことを繰り返し言うようになった。
つまりそれは、「元気なうちに、もっと楽しませてやればよかった。お金を使ってあげればよかった」ということだった。

その願いも、もう叶わない。

祖母の死について、今はまだ実感が湧かない。まだ何も見ていないのだから当然である。
しかし、もう長いこと覚悟が出来ていたから、報せに際して特段大きな驚きもなかった。
それは恐らく、先月、心臓が止まった状態で病院に緊急搬送された時に、「祖母危篤」の報を受け、翌日すぐに会いに行ったからだと思う。人工心肺装置によって辛うじて命ある祖母は、その生の証明である脳と、唯一持つ意思伝達の道具である瞼でもって、僕の声に必死に反応し、涙していた。それが最後に交わした「言葉」であった。

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