子どもの頃から大好きで、幾度となく繰り返し読んだ絵本がある。
Shel Silversteinの『おおきな木』(原題:The Giving Tree)がそれである。今は村上春樹による翻訳で出ているが、僕が持っていたのは本田錦一郎によるもので、こちらの方が優れていると思う。
僕は、11歳で母方の祖母を失ってから、不思議なことに「死にたい」と思うことはなかったけれども、時々「もうこれ以上生きていたくない」と思うことがあった。そんな時は必ずと言っていいほど、この絵本を開いた。自ずと涙が零れ落ち、裏表紙を閉じた後、ほんの少しだけ世界が違って見えた。
我々はもしかしたら、奪われることにも、奪うことにも、慣れっこになってしまっているかもしれない。
僕は、人は思想し、思想が社会を構築し、その社会の中でまた新たな思想が萌芽し、広まり、より良い生の営みのために働くのだ、と信じたい。無論、ここで言う社会とは、複数の人々の有機的な繋がりによる総体のことであり、文化的にしろ、経済的にしろ、あらゆる事象がここに包含されている。
しかし実際には、今日、思想は無力化されているように見える。何故か。簡潔に言えば、経済システムが社会を構築する基盤になってしまっているからである。資本主義は国家を、そして社会全体を、搾取の構造にした。無から有を生み出す幻想である「利子」の発明のおかげで、搾取の構造から抜け出せないままに死に至る我々は、裏で繰り返される殺戮と破壊にすら盲目である。
我々はそうした構造の中で思想し、表現することを強いられている。ほとんどの、より良い未来への道標となり得る鮮烈な思想が、そしてその表現が、人々に行きわたり、その役目を果たす前に、黙殺される。
話をあの絵本に戻そう。
テーマを見出すとすれば、それは「与える(give)」であろう。
木は少年に「ただ」与え続ける。一切の見返りを求めず、持てるものを全て与える。少年が舟を拵えるために、木は自分自身の肉体のほぼ全てすら与えてしまう。そこで、こう綴られる。
"And tree was happy... but not really."
これを村上は「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」と訳し、本田は「きは それで うれしかった・・・だけど それは ほんとかな?」とした。本田の方は名訳だと思う。
搾取の構造が家庭や親子の間にまで浸食してしまった時、その子は生きる術を奪われた感覚に苛まれ、この世界の終わりを願うだろう。
見返りを求める愛など、愛ではないのに、そんなことすら知らずに親になってしまう人々がいる。僕の親もそうだったが、親がすべての手本であるわけがないし、家族が世界の全てではない。
この絵本は、僕に、与えるということの美しさを教えてくれた。それと同時に、奪う側の傲慢さがいかに恥ずべきものかも。
人類の経済の原初形態は、「交換」でも「贈与」でもなく、「あげたり、もらったり」ではないか。学生時代にこのテーマについて考える契機を与えられて以来、その時に受けた講義の影響もあって、今でもこう信じている。与えられる時に与えらえる物を与え、貰えるならばありがたく貰う。負債の感情なしに、また、見返りの要求もなしに。ここには所有の概念がほとんどない、または、極めて流動的である。「私のもの」は何もない、私が創り出したものでもない、全て与えらえれたものである、という感覚。その時、自然の在り方は愛そのものであり、「あげたり、もらったり」はその共有の作法である。
しかし、木のしあわせだって、願わなくては。
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