Dino Saluzziはよく、こんなことを言う。
「簡単なことなどない。難しいことというのもない。シンプルなことと複雑なことがあるだけだ。」
そして、続けてこんなことも言う。
「良い音楽、悪い音楽、というのもない。良い演奏と悪い演奏があるだけだ。」
音楽は、注意力の、ないしは、意識の産物だ、と言える。
音が音楽になる時、そこには、「聞こえる」という状態から踏み出し、「(目的意識や意志を伴った)聴く」という行為を自発的にする聴衆の出現が不可欠である。
音楽の要素は音と静寂であり、それらを組み合わせることが作曲である、とJohn Cageは言ったが、その音と静寂の組合せを音楽として聴く意志を持った聴衆の存在が必要であるから、音楽はその在り方からして、他者依存的である。
先日twitterにこんなことを書いた。
「楽器の練習は常にppから始めるとよい。用意された静寂から、音が生じる瞬間を、しっかりと捉えるためにも。fやffはあくまでも対比である。ppの意志は、演奏者側だけのものではない。むしろ、しばしば聴き手にこそ高まる。また、優れた演奏家は優れた聴き手でもある。小ささは弱さではない。」
楽器の演奏において、第一の聴衆は演奏者自身である。
また、演奏というと、すぐ既存の曲の演奏のことを思い浮かべてしまうので、忘れられがちな点がある。楽器の演奏とは先ず、音を生じさせることなのである。(無論、自分自身の身体から生じているとは言い難い。その感覚は、演奏上の意識や姿勢としては大切かもしれないけれども、実際には楽器を介して、である。)
先ず、静寂を用意する。音を待つ感覚である。この時点で「聴く」ことが既に始まっている。始まっていなければ、音は出してはいけない。
高まった聴取の意識の中で、音を出す。(ここで演奏上の助言をするとすれば、どんな弱音でも、楽器が鳴っていなければならない。)意識は、すぐさまその音の出現を感受する。立ち現れるピアニッシモに対して耳は研ぎ澄まされていく。
たとえ一音でも、この意識の集中を実現するのは、容易なことではない。私たちはしばしば、複雑で技巧的な音の組合せに興味を引かれがちだが、本当のところ、良い演奏というのは、この極限にまで高められた意識が、奏でられる一音一音に行き届いているもののことではないだろうか。一音が音楽になり、ハ長調の音階練習が美しいコンポジションとして響く可能性が、ここに秘められている。
「簡単な音楽」などない。あるのは、そんなことを言ってしまう演奏家の傲りと自惚れだけである。
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