「これらの機械を全て外せば、死ぬということだ。自力で生きているのは、脳だけだ。」
死を眼前に控えた祖母を前に、僕は、手話で父にこう伝えた。こんな言葉を吐いたのは、手話に限らず、日本語でもスペイン語でも英語でも、未だかつてなかったことで、自分で自分の言葉に少々驚いたが、そういうものなのかもしれない。
祖父と3人、我が家三代の男だけで、しばらく祖母に話しかけたり、じっと眺めたりしていた。最初の脳卒中から約10年が経っている。祖母はその間、度重なる再発や併発症による病状悪化で、病院や施設を転々としてきた。
今も危篤状態は続いているが、不思議なもので、こちらは一種の覚悟というか、これこそ生の営みなのだという諦めというか、そういう感情を得られて、落ち着いている。死は、誰にでも等しく訪れる。
郷里に行くと、時折、胸が苦しくなる。自分では赦しているつもりでも、記憶は甦ってくる。
特に父親の存在を見るにつけ、母親の存在を思い出すにつけ。
僕は音楽を聴いたり、楽器を演奏したりすると、殴られるような家庭で育った。
音楽についてだけではないが、とりわけ聾者である父親が理解し得ない音楽については、過敏な反応があった記憶がある。家庭の中には常に暴力があった。それが日常であった。
また、特に母親は、一家を巻き込むまでに、とある新興宗教にのめり込んでいた。もはや、狂っていた、と言っていいほどだったと思う。僕が「信じない」と言った後は、母親によって、一家に降り注ぐ数々の災厄の原因は僕の存在だとされた。「死ね」「殺す」の類の台詞を彼女の口から何度言われたか知らない。愚かなことだと思う。
僕は母方の祖母の死を機に、常に家から逃亡したいと思うようになった。おかげで独り立ちの術も早々に覚えた。12歳から人前で笛を吹いて稼ぐようになったのも、こうした理由があったからである。
ついに、当然のことながら、両親どころか、家族・親戚の誰一人にも、僕の音楽家としての生き方、僕の音楽を理解し応援してくれる人は、現れなかった。
両親は離婚し、それぞれに新たな伴侶を得て、新たな生活を送っている。
一家離散、というよりは僕が自ら断絶していた時期が続いたが、祖父が送ってきた一通の手紙を契機に、僕は郷里に時折戻ったり、連絡を取ったりするようになり、今日に至る。祖父は手話が全く出来ないので、父とのコミュニケ―ションの繋ぎ役としても、僕は都合の良い存在なのかもしれないが。まぁ、何でもよい。
先日、6、7年ぶりに自転車を手に入れた。
初めて乗り方を覚えた時から、両足を地に着けず、風を切って移動するのが、僕には自由な根無し草を想わせて、爽快なのだ。10代の頃は日に150kmでもペダルをこいで、あちこち出かけた。
いつでも、どこへでも行ける、そう思わせてくれる。
「移動」は、「そこにある」と「そこにない」を繰り返す。その意味で、それぞれの瞬間は、死に近く、また、音に近い。などということを、ふと思う。
今日のような晴天は、僕を、ここではないどこかへ誘う。
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