2016年12月2日金曜日

音は、今、鳴る

僕は、人類史において、作曲をしない演奏家が「音楽家」として生き残り得るかどうか、まだ疑問の余地がある、と考えている。少なくとも録音技術の誕生以前には、そうした演奏家たちはその音楽を記録として遺す手段も、情報として伝播させる方法も持たず、歴史上、(演奏を聴いた誰かが言葉によって形容し、その名を書き残してくれた例はあったとしても)無名化されたのではないか。

しかし、かつて音楽は常に即時的、同時的であり、共時的であった。今日でも、演奏を止めない音楽家の間には、この音楽の特性への信奉は根強い。かく言う僕もその一人である。
Dino Saluzziは、「音楽は"tiempo real"(=real time)の芸術である」と言った。

演奏家に音楽家としての創造性を認め得るのは、美しい音を生み出す時である。美しい音は、それ自体がすでに美しい音楽であるがゆえに、美しい音楽と同様に、またはそれ以上に、生み出すのが困難なものである。
しかし、この「美しさ」は、奏でる者だけに依るものではない。楽器の状態、空間、時間、そしてそれら全ての共有者が関わる。ゆえに音楽を「聴く」という行為は、常に能動的で参加的なのだ。

音は、生じては消える。
録音技術が存在しない世界では、それは、「今起こり」「今味わう」ものであった。
その意味で音は、味や匂いに近く、音の記憶は暗黙知の次元にある。

僕自身は、音楽家として、歴史に残ることには意義を見出さない。死んでからありがたがられても仕方ない、というのが正直なところである。
それよりも、我が命の有限性を拠り所としながら、生の、記録にも情報にもならない記憶として、誰かと共にあることの方が、嬉しく、また、心地よい。

僕は、音楽家ではなく、音楽に、もっと言えば音になりたい。

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