また、メールやチャットなどを用いた日々のやり取りの8割以上が、今はスペイン語になっている。
必要に迫られて、である。別段、得意なのではないし、専門教育を受けたのでもない。聞いたら喋らずにはいられないし、読めば書かずにはいられない、それだけである。
ジャーナリズムは死んだ、と言う人がいる。マスメディアのジャーナリズムはそうかもしれない。資本が真実を封殺し、言論を捻じ曲げ、報道を広告にしてしまっていては、そうと認めざるを得ない。
僕は子ども時代から、テレビをあまり観ない。一人暮らしを始めて10年近く経ったが、テレビを持ったことがない。たまに中華料理店なんかで観ると、その内容の無さに辟易し、操られ方にぞっとする。新聞もまた然り。死んだと言われても仕方ない。
しかし、である。
インターネットの普及、殊にSNSの浸透による効果の一つは、本来は通信であったものが報道の役割を担うことにある。その発信は容易に一人で出来て、その内容は圧倒的にリアルである。
アレッポの惨状を、私たちは今や、カメラとマイクを携えたジャーナリストを通じてではなく、爆撃されている現場にいる一般市民が発信するスマートフォンの映像で知るのである。今この時起こっている現実が、「これが最後のメッセージになると思う」という生きた言葉によって突き付けられるのである。
もはやこれは情報ではないかもしれない、とすら思える。
2001年9月11日、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでいく映像を、我々はあの時、瞬時に情報として読み解くことが出来ただろうか。現実であることすら疑ったのではないか。当然である。2011年3月11日、津波に飲み込まれていく街の映像を、我々はすぐに現実として受け止められただろうか。あの映像を、現場にいない人たちは、情報的に理解する必要があったのではないか。リアリティは希薄となり、「地震」「津波」…と言語化され、理解され、記憶され、やがて忘却された。
我々、日本で教育を受けた者は往々にして、知識を問われることには慣れっこだが、考え、意見を問われることに対しては、随分と不甲斐ない。
しかし、「考えること」を伴わない「知ること」は、今や徐々に必要とされなくなってきているのではないか。情報は氾濫している。知っていることに、かつてほどの価値はない。問われているのは、あなたの知識ではなく、考えである。知識は知的に考えることを助け、考えの及ぶ世界を広げ、考える態度を寛容にするのに役立つ、いわば道具である。あなたの考えこそが、あなただけに求め得るものである。そして、あなたの考えはあなたの行動を動機づける。「アームチェアの人類学者」が、なぜ常に、実践者としてフィールドに出る人類学者による批判の的であったのかを思い出すとよい。
情報の手前、現実により近いものが、日々、世界のあらゆるところから届けられる。時に、目を覆いたくなるものも含まれる。目を覆うのも自由である。じっと見つめるのも自由である。重要なのは、その時あなたは何を感じ、そして、考えたかである。考えるのである。たとえ、捉えどころがなくとも。そうして、今、何をすべきかが少しずつ見えてくるはずである。
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