2016年12月6日火曜日

永遠の感覚

昨夕、Giuseppe Tornatoreの新作を観た。
ともすれば回りくどく語られ、核心を突かれにくいが、しかし生きる上で本当に大切なことを、誰にでも理解できる表現でもって伝えようと試みる秀作が多い監督なだけに、今回も流石の美しさであった。(ちなみに音楽はEnnio Morricone、恐らく世界一忙しい88歳の一人であろう巨匠。)

テーマは「死と永遠」といったところだろうか。

終盤の台詞にあった、「人は"ある過ち"を犯すから永遠に生きられなくなる」という問いかけが、(作中では登場人物の口から彼自身の答えは与えられていたが、それとは関係なく)劇場を出た後も僕の中では響いていた。

「自分が今生きているという感覚の中に、欠片として、永遠の感覚がある」と鶴見俊輔は言った。
僕が敬愛する哲学者・大森荘蔵は、「現在只今」を考え続けた。過去もなく、未来もなく、今、直に立ち現れる、と。

鶴見の言う通り、永遠は「感覚」である。その感覚でもって見つめ、想起するのは「今」である。今が永遠にあるという感覚であり、今こそが永遠であるという感覚である。この意味で「欠片」ではない。命ある「瞬間」というよりはむしろ、命の「在り方」そのものである。大森の言うように、「知る」ことを「生きる」ことの様式と捉える時に立ち現れる感覚こそ、その想起の出発点としては、永遠に近い、あるいは、そのものである。

無から生じ、無に帰る。
命は音に似ている。
死が生を以て証明されるのではない。死を以って生が明らかにされるのである。
三木清は、虚無こそ人間の条件であり、生命とは虚無を掻き集める力だ、と言った。

あの"ある過ち"とは、今この時を我が全生命を以って尊んで生きることが出来ないこと、ではないか。それによってのみ、永遠の感覚は立ち現れるのだから。






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