2016年12月4日日曜日

ありのまま

産まれたての自分を想像する。
母胎から出て、産声を上げ、呼吸を始めた時から、世界は瞬く間にその感受性の対象となる。世界は、概念からも言語からも、つまりはあらゆる名付けから解き放たれ、ただ立ち現れる。
ここは、いわゆる「言語論的転回」の想像が及ばなかった、それ故に彼らの嘘が容易に暴かれる次元である。
そう、世界は「ただ、ある」。

言葉は元来「虚偽的な道具」である。「ただ、ある」世界を切り取り、その切り取られた断片に名を与え、恣意的に仲間分けをし、抽象度を上げて、概念として思考上の操作し易くするための道具である。そうしなければ他者との意思伝達は捗らないが、「私」がこの世界においてただ個であり、同時にこの世界に境目なく組み込まれた存在である時、言葉は、より正確に言えば、すでに獲得され共有された言葉は、世界を感受し理解する道具としては、あまりに頼りない。「ただ、ある」世界の、ありのままを描き得ないもどかしさは、言葉から解き放たれた、より直接的な、ありのままの世界を「私」が感受したありのままの記憶によって、解消されるだろう。

だから言葉は虚栄の役に立ちやすいのかもしれない。
三木清の『人生論ノート』の中の「虚栄について」には興味深い指摘が並ぶ。
「虚栄は人間的自然における最も普遍的な且つ最も固有な性質である。虚栄は人間の存在そのものである。」「人生はフィクショナルなものとして元来ただ可能的なものである。その現実性は我々の生活そのものによって初めて証明されねばならぬ。」「人生の知恵はすべて虚無に至らなければならぬ。」「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。」「虚栄は最も多くの場合消費と結び附いている。」と断じ、終いには「しかし自己の生活について真の芸術家であるということは、人間の立場において虚栄を駆逐するための最高のものである。」と言う。

例えば音楽が、三木の言うように「虚栄を駆逐するための」ものであるためには、先ず言語性から離れる必要がある。巷によく飛び交う「音楽はユニヴァーサルな言語」などといった類の謳い文句は、芸術のこの重要な役割を全く理解していないと言わざるを得ない。まぁ、所詮、商業広告のキャッチ・コピーである。芸術表現はその出発地点、衝動の時点で、非常にパーソナルであり、そうでなくてはならない。創作活動には孤独がつきものであると言われる所以は、ここにもある。正に己の感受性によって直に世界に触れ、共有を前提としない、他者への伝播の可能性も放棄した、言語化・概念化手前の、溢れるがままの手探りの表現にこそ、可能性がある。

そして、その創作物が他者と共有された時、それを享受する時の我々も、ただありのままを感受し、「語り得ぬもの」の言語化ではないアプローチ(引き寄せの方法)を模索し、記憶することで、その表現に応えなければいけない。少なくとも、そして、あくまでも、個の次元では。

ありのまま、「ただ、ある」世界そのものに近づく手段を、幸いにも、まだ我々は失っていない、と信じている。





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