「寺」と「食堂」が舞台だったが、演奏会もさることながら、そこに集う人々、その生の営み、それを支える風土そのものが、ありのままで美しく、強く心打たれた。良い旅だった。
20歳でボリビアのラ・パスに単身渡航したのを皮切りに、その後の人生の半分以上の時間を日本を遠く離れ、南米大陸(主にアルゼンチンのブエノスアイレス)で暮らしてきたが、11歳の秋口に起こったある出来事によって心にすっぽりと開いた穴は、以来、世界のどこにいようとも、僕に「ホーム」を喪失した感覚を抱かせ続けてきた。
しかし昨日、「樫食堂」で出逢った風景は、僕の人生の「原風景」を思い出させてくれた。そう、しっかりしまってあったのだ。
心を温めてくれる寒さがあり、どんな音よりも音楽的な深い静寂がある。地平線はあるがままの自分を受け入れてくれ、風は愛してくれる。
その食堂を営む一家は、自らの手で育んだ野菜を、自らの手で調理し、携帯電話の電波も届かぬ、威風堂々とした大地に、ぽつりと佇む彼らの家に、彼らの料理を心から求めて辿り着いた人だけに、ただ差し出す、ということをしている。
かつてはそれが当たり前だった。
命には、いただき方があった。調理にも食事にも、ある種の儀礼性が伴った。
僕は根っからの祖母さんっこだった。母方の祖母が誰よりも好きだった。
彼女は家の近くに小さな畑と田んぼを持っていた。田は、手で植え、手で刈る、で済む程度の、畑は日々の食事の足しになる程度の、それぐらいの規模だったと記憶する。よく、色々と手伝わされたので、今でも一通りのやり方を覚えている。
この畑で採れたトマトが世界で一番美味かった。じゃがいもも、とうもろこしも、土の味がして美味かった。すいかは畑で休憩の時、祖母が膝で割ってくれたのを、むしゃむしゃと食べた。甘かった。
見渡せば辺り一面が津軽平野に営まれた田畑で、水が流れ、お山があった。
思い出したのは、この風景である。
常々、農作のように音楽作りをしたい、と思っている。
特に東京に暮らす周囲の「売れっ子」ミュージシャンを見ていると、朝早く出かけ、午前中に録音仕事、昼にリハーサル、夕方には別件のリハーサル、夜はコンサートの本番、という日々を、ほぼ年中、毎日のように送っている。ツア―に出かければ、移動中すら、連絡業務や事務作業に追われている。
凄いもんだ、こうしなければ生活が成り立たないんだな、と感心する一方、彼らはいつ考え、修練し、創作しているのだろうか、という疑問が湧く。彼らは自分という大地を耕すことが出来ているのだろうか、と心配になる。
音楽を作るために、音楽よりも大切なことがある。人の、人としての営みである。その一部が音楽だ、というだけであって、決して全てではない。「音楽」という概念すら、実は不要なのだ、ということは、世界中の多くの「未開」「原始的」とされる人たちが証明している。
豊かな土地から、滋味深く、美味い野菜が採れるのである。人が豊かでなくて、どうして真に豊かな音が響こう。
自分を耕す時間は、演奏よりも圧倒的に長くなければならない。そして次なる収穫のために、命の繋がりのために、耕し続けなければいけない。丁寧に、育て続けなければいけない。
それを他人に提供するならば、それぐらい心しておくべきだろう。「口に入れるものとは違う」とは単なる言い訳である。筋も通っていない。音楽だって耳に入り、頭に入り、留まる。
樫食堂のスープを一口すすった瞬間に、このことの大切さを改めて確信した。
この味に応えられる音楽ができただろうか、と振り返った。
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