演奏後、客席から
「これは何というジャンルの音楽なのですか?」
といった質問が度々飛んでくる。
先日の会場でも、終演後、真っ先に投げかけられたのがこの言葉だった。
似たようなものだと、例えばコンサートの案内をした折などに
「どんな音楽ですか?」
などと問われることもしばしばである。
いずれも非常に答えに困る。
困った挙句
「カテゴライズを拒むと思います」とか
「言葉に出来るなら、初めから言葉にします」とか
偉そうに、喧嘩を売っているような物言いで返答してしまうことも多いが、実際はもちろん喧嘩などしたくない。共存共栄がモットーであるからね。
しかし続け様に
「でも、一般的に人々はジャンルで音楽を聴きますよね?」などと言い返されると
まさか、そんなわけないだろ?いやいや、こりゃ驚いた、とでも言いたげな顔で苦笑するしかなくなる。すぐ顔に出る質だ。素直とも言える。皆様、どうかお許しを。
しかし、どうもこの音楽における「ジャンル分け」というのが、本来の必要性(すなわち、歴史的・風土的・文化的背景を共有し、リズムや形式、演奏形態などに脈々と通底する共通の音楽語法があるものを分類し理解すること)から離れ、いわば音楽を「売る側」の都合で売りやすくするための恣意的なレッテル貼りに終始してしまっているようである。
先のような発言が一般聴衆の間で平然となされるのは、このようなジャンル分けが十分に成功した証拠だし、何事も抽象度を上げた理解というのは必要ではあるが、具象を伴わない抽象的理解とはあんこの入っていないたい焼きをたい焼きと認めるようなもので、中身がない議論に陥りやすい。
結果、本来は己の唯一無二の音楽的創造を探究すべき音楽家たちすら、この商業都合の悪習に甘んじて迎合するなんていう事態も、まま起こる。
僕はそういうのは嫌いだから、素直に上のような物言いをしてしまうだけなのだ。
断っておくが、意図してジャンル分けを拒んでいるのではない。あくまでも結果である。
肩書すら無用の生き方をしている。僕の表現が僕に似るのは当然至極である。
「周囲に目配りしながら考えたものが、周囲にとって画期的であるはずがない。そういう仕方で考えられたものが、そう遠くまで行けるはずもない。知り焦がれる思考は、歴史の地平に垂直に立つ。『○○時代の××主義』とは、言ってみれば後世の人間が、彼ら考えた人々の排泄物を拾い集めて分類し、わかったつもりになるために貼り付けた名札以上のものではない。」(池田晶子『考える人』)
言い得て妙である。
J.S. Bach本人が「私は後期バロックの作曲家です」などと名乗ったはずがなく、いつだって先進的な表現には名前がない。
折に触れ、いつも引くが、「創造」の「創」の字は「傷」の意を持つ。人類の豊かな智を咀嚼した上で、凝り固まった今日の有様を切り裂いて溢れ出す鮮烈な表現を、我々は感ずるままに感受するしかない。
一方で、先日も書いたように、作り手はその意識のうちになお「何も作っていない」という謙虚さを持つことが、助けとなるだろう。殊、音楽は、「所有」すら拒む性質がある。作り手本人がその困難さを最も理解しているはずである。しかし、音楽のこうした性質は、考えようによっては、本当に面白い可能性を秘めている。
John Cageは、とあるインタビューで、彼が作品のアイディアを作る前から包み隠さず話してしまうことを指摘され、それでは盗用されてしまうではないかと心配され、こう答えた。
「私たちには、もはや自分自身のアイディアというのはありませんから、誰も盗用などできないのですよ。もし誰かが≪アトラス・ボレアリスと10の雷鳴≫をやってみたいと思うならば、私が実行する必要はないでしょう。ですから、できるだけアイディアを公表するのです。」(小沼純一編『ジョン・ケージ著作選』)
創造の現場では「ジャンル」は全く役に立たない。
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