「音楽のことしか知らないと、音楽のことが分からなくなる」
と、10代の終わりの僕に、我が師は言った。
この言葉が、僕の音楽家としての姿勢、延いては生き方そのものの、根底を成している。
自分自身を知るために、他者を見つめる。これは人類学の、その成立から一貫した基本姿勢である。
優れた人類学者は、フィールドワークの最中に出くわした「興味深い」出来事を記録するだけでなく、その時の自分自身の反応を真摯に見つめる。なぜこのように感じたのか、を考える。行きつくのは、「彼ら」の物珍しさではなく、自分自身である。
リュート奏者の佐藤豊彦氏は、今の人たちは「貪欲でない」と言う。一理ある。
巷によく聞く「今の若者は、云々」の指摘の類ではない。
手のひらサイズどころか腕時計にまでなったインターネット・アクセス手段は四六時中、情報を我々に浴びせ続けている。しかしそれらはあくまでも「記録」であって、その時点では匂いもなければ味もしない、音で言うならば、楽器から出ているものでもないのである。なのにそれらの情報は、我々の思考を瞬く間に、そして容易に支配する。一喜一憂するぐらいならかわいいもので、時には命を脅かし、権力を掌握する。これほど操作が簡単なのにも関わらず、である。
佐藤氏の言葉は「真実に向き合え」と言っているようにも聞こえる。
東京のコンクリート・ジャングルに悍ましいほど乱立する飲食店の数々を見る度に、ぞっとする。理由は大きく分けて2つ。1つは、過剰に生産され、消費され、大量に破棄される命への畏敬である。もう1つは、これらの店すべてが、口に入れ、身体の中に摂りいれるものを提供しているという事実である。
この中から、本当に美味しく、安心して口に入れられる物だけを出す店を見つけるのは、容易ではない。僕にとっての「行きつけ」の店はそういう場所であり、それらの店は訪れた瞬間から分かる独特の「哲学」を携えている。例えば昨夜、牡蠣うどんと鯖寿司を食べたうどん屋がそうである。
会いに行かなければいけない。
見て、聴いて、触れて、食べて…それでも分からなければ、信じられるうちは通うのである。
人生の時間は限りある、そして不可逆的である。その唯一無二性こそが、時の貴重さであり、尊さの所以である。
だからこそ、本当のことに、出会いに行かなくてはいけない。自分の時を使って、自分の身体でもって。
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