たいそう不思議なことに、楽器演奏の習得においては、初学者の方がしばしば自信に満ち溢れている。
どういうことかと言えば、例えば自分の技術不足を棚に上げて、安易に問題の責任を楽器に転嫁しがちである。その楽器の良し悪しを判断できるほどの十分な技術がないにもかかわらず、である。
また例えば、指導者に習ったことはすぐに自分にも「できる」と思っている。練習もしないで。それでいて思うようにいかないと、指導者や教則本を責める。「教え方が悪い」「内容が間違っているようだ」などと言って。ファスト・フードよろしく、ファスト・ミュージックというわけである。
そういった要求を、供給側は商売だから、満たす努力を余儀なくされる。いや、そうせざるを得ないのか、あまりにもそんな売り方をし続けてしまったから、人々が上のような考えをしてしまうようになったのか、因果は定かでないが、街は「すぐできる〇〇」「1週間であなたも〇〇奏者」の類の教室広告や教本で溢れている。
断言するが、簡単な楽器などない。どんなものも、一朝一夕にして成るものではない。
あらゆる人がすぐできるようになるための「マニュアル」があると思ってもらっては困る。
基礎知識はある。長い歳月をかけて多くの先人たちが四苦八苦しながら培ってきた基礎技術もある。これらは、その効果が瞬く間に現れるというものではない場合が多いし、上達してからは「当然」になるだろうから、その本当のありがたみが日々嚙みしめられるようなものでもないかもしれない。しかし、あるのとないのとでは、大違いのものである。そしてその習得は、日々の修練を前提とする。
高名なフルート奏者であり研究家であるHans-Peter Schmitzは、その著書『後期バロック音楽の演奏原理』の中で、1750年代に、今日の我々が当時の音楽的状況(演奏習慣や様式、歴史的背景)を知る重要な手掛かりとなる優れた教則本が多数発表されたことに触れた上で、こう指摘する。少々長くなるが引用する。
「これらの教則本の出版された1750年代は、一見実り豊かで音楽的に健康な時代にみえますが、後期バロック様式にとっては、こうした教育面での豊作は秋の到来の前兆でした。なぜなら、伝統というものは死に絶えんとする時になって初めて活字に固定されるものだからです。例えばトランぺットのテクニックの場合も、その生きた伝統が消滅し始める頃(1795)になって初めて教則本が印刷されて、やがて墓に葬られたというわけで、それ以前には活字に固定されることなど不必要だったのです。」
この一文は僕にとっては、構想してきた『現代ケーナ教本』の執筆を断念させるに十分な説得力を持っている。この世を去る時までにはやっておきたい仕事の一つではあるけれども、いつ終わりが訪れるとも知らぬのが命である。
かのBruce Leeは、「流派」が武術を殺すという信念に立っていた。時代の最先端にあるものは、いつだって、「未だ名前を持たぬ」ものである。カテゴライズを拒み、その状況は常にその発展の「過程」「最中」である。道を断つのも人の勝手であり、瓶詰のホルマリン漬けにして博物館に飾ってしまうのも人の勝手である。プロセスこそ、真に豊かであるのに。
日々、広がりのある練習を!
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