しかし音そのものは、概念からも概念化からも本来は解き放たれているから、音楽は言葉ではなく、言葉も音楽ではない。音楽が言葉に聞こえるとしたら、それは言葉的な耳で聴いているからであり、言葉が音楽に聞こえる時には、それは言葉を、意味からも意味付けからも自由に聴いているからであろう。
あらゆる事柄で、この「解き放ち」が、しばしば大きなインスピレーションとなる。
創造的な活動における行き詰まりの原因は主として、作り手自身にある、固定された何か、だ。
谷川俊太郎の詩に『コップへの不可能な接近』(『定義』より)というのがある。僕自身はこの詩が好きでも嫌いでもないが、「解き放ち」のための準備に必要なステップを示唆しているように読める。
「それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。…」と始まる。
例えばギターを初めて持った子どもをすぐにギター教室に通わせると、たちまち「メソッド」に則って、構え方から手の形、姿勢、音階練習云々を、否応なしに教えられる。しかし考えてみれば、そうしたありがたい「メソッド」は、先人ギタリストが試行錯誤を繰り返し、日々考え、実験し、試しては失敗しを繰り返し、やっと「この辺でよいかな…」と生きているうちに取敢えずは納得できる形にして遺してくれた、いわば「排泄物」である。この「排泄物」は固定化された記録であるがゆえに、情報として容易に流布するわけだが、同時に「化石的」であり、しばしば「固定化」の道具として用いられるもので、能動的に考え、試みる機会を、この手つかずの広大な可能性を持った新米ギタリストから奪ってしまう。
しかし、もし「先生」がいなければどうだろうか。
ギターは、谷川がコップを見たように、この子にとって、「くびれのあるひょうたんのような形をした箱に細長い板が連結し、そこに弦が張ってある…何か」として立ち現れるのではないだろうか。この新しい玩具の遊び方は無限であるようにさえ感じられるかもしれない。そしてこの子に音楽的な耳があるならば、その音楽的な美を体現するための音を、この玩具から引き出す試みが、早速始められるだろう。
「耳というのは音楽を聞くことで音楽的になる」と言ったのは林光である。
僕はこの考えには半ば賛同し、半ば疑問を持つ。それはつまり、すでに世間一般で「音楽」と呼ばれているものを、例えばW. A. MozartのシンフォニーやL. van Beethovenのソナタを、「立派な、本当の、ありがたい音楽」として聴くことだけが、音楽を聴くということではないから、である。
音を「発見」する時、音楽は始まる。
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