友人にEmilio Regueiraという役者がいる。
先日、Facebookに
「Como que la vida nos parece más clara con su muerte, la música certifica su existencia con el silencio.(生の証明が死をもって為されるのと同様に、音の存在証明は静寂をもって為される。)」と書いたら、
「El teatro es un largo silencio interrumpido por palabras.(演劇は言葉によって遮断される長い静寂だ。)」と返してきた。
そういう男である。
役者をやっていること以外は何も知らないが、そんな表面的なことではないところで、この男をよく知っているつもりだ。
彼は、音楽家としての僕を、「静寂を操ることを知っているから」と言って、買ってくれている。
「音は、終局的に静寂には克つことができない」と言って、音楽の基礎は静寂であるとしたのは、芥川也寸志だった。(『音楽の基礎』岩波新書)
ところで、現在、『ソロ』というプロジェクトで日本各地を巡業中である。7公演ほどを終え、行程も半ばに差し掛かっている。そして、公演の度に気付きがある。
楽器と我が身体が音源なわけだから、僕が音を出さなければ静寂なのかと言えば、もちろんそうではない。
こういう時、空間は楽器であり、聴衆は共演者である、という事実を思い知らされる。
先日の演奏会場の冷蔵庫は、#ソの、一定間隔の小刻みなヴィブラートを伴った通奏低音を終始奏でていた。
そんな時、音楽家は、その状態を静寂に「する」か、その音と戯れるしかない。
静寂にする、というのは、先ずは己の耳を空間の隅々にまで張り巡らすところから始まる。
音を待つ。この状態こそが、音楽的な静寂の第一歩である。
ここでは、共演者としての聴衆の良心も肝要である。
そうした意味でも、音楽はどこまでも他者依存である。
「作曲する」にあたる語は、ご存知の通り、英語ではcomposeだし、西語ではcomponer、いずれも「作る」というよりも「構成する」という意味である。
実際には、白紙では作ったことにならぬし、余白ばかりでは様にならぬ、と五線紙を音符で埋め尽くせば一先ず安心する、というのが世の「作曲家」たちの常なのかも知れない。
そうして、音楽家や演奏家が音楽の邪魔をするなんてことも、しばしば起こる。
だが、静寂を聴き、音を待ち侘び、音が静寂に帰す瞬間を愛でることもまた、音楽の醍醐味である。
音と音の間が静寂なのか、静寂と静寂の間が音なのか。
さてと、耳を澄まそう。
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