2016年11月6日日曜日

蕎麦と音楽

昨夜、美味い蕎麦を食べた。
間違いなく、これまでの人生で最も美味い蕎麦だった。
美味いものは美しい。色艶、しなやかな主張、その有様は芸術だった。
つゆがまた絶品で、いわゆるよくある類の蕎麦つゆと、特製の出汁との二種類を出してくれたのだが、前者もさることながら、後者は我が味覚をこれでもかとばかりに喜ばせ、思わず笑みがこぼれるほどの衝撃的な旨味が口中を覆い包んだ。幸せに味があるとすれば、これだな、と思った。

しかし、この圧巻の蕎麦を作った人はこう言い切った。
「もし、この蕎麦を美味しいと思ったならば、それは農家と土地のおかげです。」

何も作っていない。
あらゆる「作り手」は、この究極の謙虚さを持つか持たぬかで、何もかも変わる。

誰もが容易に「作曲」をし、出来上がったものを「オリジナル」と呼ぶ昨今。
しかし、一体何を作ったと言うのだ?
空気が鳴る。音楽のために必要な環境すら、人間はゼロから生み出すことができない。
作曲という言葉すら怪しい。composeと言った方がまだ相応しい。
記憶や情報を、己の智に組み込み、咀嚼して、後に、表現の必要性から出てきたものの一部である。
今一度問おう。何を作ったと言えるか?

地球が手本であり、全ての「在る」だ。我々はその中で遊んでいる。
自然、すなわち、自ずから然るべきように。その存在と戯れること。
我々は何も生み出してはいない。

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