他者の痛みを感じ取ろうとすること。アニミズムに根本原理である。
「―を感じられる」のではない。「―を感じ取ろうとする」という、他者を契機としながら、極めて能動的な心の動きこそが要である。
今日の日本に暮らしていると、この、人類が長い歳月をかけて最も発達させてきたはずの心の機微を、尽く剥奪されるような、または、剥奪し続けるシステムの中で生きることを強いられているような、苦しみを覚える。
先日、Facebookにて、スペイン語で弱音を吐いた。なるべく避けているので、珍しいこととは思う。
しかし最近では、もしスペイン語世界を獲得していなければ、僕は今日まで生きていなかったのではないかとすら思えてくるほどである。
ここに転載もしないし、訳出もしない。僕が持っているスペイン語世界に向けて、スペイン語脳で書いた一文である。
そんな投稿に対し、瞬く間に、アルゼンチンを中心に南米各国、スペインやトルコからも、多くの友人、音楽仲間、ファン、ネット上だけの知り合いがコメントやメッセージを寄せてくれた。(日本からも1人、スペイン語を何かで訳して読んで、日本語でコメントを書いてくれた方がいた。)それらは例外なくすべて、共感と励まし、そして、僕の音楽と僕の存在そのものを必要としてくれているという事実を伝える言葉に溢れていて、まるで言葉による抱擁のようで、思わず涙がこぼれた。
そして同時に、彼らの痛みも、僕は感じ取ろうと努めるだろう、と思った。
これも一つのアニミズムの形ではないか。
アニミズムを「想像力」として片づけてしまうのは、やや乱暴かもしれない。
始まりは、他者に命を認める作業である。それは同時に、自己を拡大していく。世界の端々にまで広げ、そして「同じ」「一部」であることを認める。
哲学者・大森荘蔵に倣って言えば、「正しく私も痛い」のである。
宮﨑駿の川上量生に対する憤りも、これで説明が付くのではないか。
貨幣もまた、我々の社会の経済的な営みから、こうしたアニミズム的な心の働きを奪い、命を限界まで軽薄化するためのシステムである。手に持てたうちはまだよかったのかもしれない。泥のついた一万円札に涙する余地があった。今や数字である。人の命からも、名前すら奪われている。
色々書いた。書くのは嫌いではない。
さりとて、僕の音は往々にして僕の言葉よりも端的で雄弁である、と信じている。
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