そう、我々は現状、真の民主主義など初めから成立し得ない社会に暮らしている。
国家は制御を容易にするために、国民が無知蒙昧であり続けることを望む。「広告」はそのための有効手段である。政府意見広告の多さ、そこに費やされる多額の金(国民の血税!)、また政府御用達企業に支配されたマスメディアCMなど、その危険性や悪質さは故・天野祐吉が40年以上前から再三指摘していたが、この点において、国民の知性は劣化の一途を辿っているようである。
こうした実情が、僕のような音楽家にも具体的な問題として常に迫ってくる。
「成長の強要」は一人ひとりの思考の奥底にまで染み込んでいる。更には、中身があっても無くても、数字によってその評価が、誰にでも、特段頭を使わなくても、見やすくされてしまっているから、よく考えることは疎かにされがちで、それどころか、奴隷的な労働のせいで、考える時間などない状態に置かれている人も数多いる。彼らに、自分の人生を自分のために用いる余裕を持ってもらうだけでも一苦労である。
また幸いにして時間に隙間を、財布に余裕を作ってもらったところで、彼らのものの考え方まではなかなか変えられるものではない。
資本主義人は、結果が分かっていることにしか投資をしたがらない。「良いと言われている」ならまだいい方で、「知っている」「見たこと・聴いたことがある」が基準となる。それらが「広告」の結果であることなど意に介さない。
芸術はその衝動からして未来志向的である。
過去の膨大なサンプルから技を学び取りつつ、今はまだ存在しない何かをつくり出し、少し後の、近くの、そして遠くの未来に放つことを目指す。
そこには勝算などというものはない。目論見も算段もない。本人だって知らないでつくっている。つまり全くの手探りである。成功作の陰には数え切れないほどの失敗作があり、そうした失敗こそがしばしば作品に陰影と深みを与えるものである。
だから芸術の歴史には「異端」しか残らない。500年後の我々の目を驚かせ、300年後の我々の耳を熱狂させるなど、ほとんど奇跡としか言いようがないが、彼らは同時代の当たり前とは一線を画すことをやってのけたからこそ、今日まで生き残っているのである。そして恐らくは、その創造的歓喜も衝動も、屈託なく、純然だったはずである。この、ある種の「無償の愛」こそが、芸術を芸術たらしめている。
資本主義社会に生きていると、唯一無二性は瞬く間に尊ばれなくなる。何人死んだ、何トン獲れた…命すら数になる。
「芸術もどきの広告」が増えた。作り手は「芸術」だと信じているかもしれないが、その体はせいぜい「広告のような芸術」であり、中身は所詮「広告」である。が、資本主義に頭が侵されていると、この事実に気付かない。僕はこれを芸術における「教養」と呼びたい。作り手も純然ならば、鑑賞者も純然でなければならず、その点において両者の区分けはない。いずれも芸術の担い手である。
資本主義は人類史の中では割と最近生まれたが、もう死に体である。芸術は人類の誕生と同時に生まれ、ずっと共にあるが、生き延びている。芸術を殺すとしたら、それは上のような教養の不在であるが、人が変わればまた生き返る、というようにやってきた。
資本主義は死ぬが、芸術は死なない。当たり前のことである。
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