2017年1月14日土曜日

基礎

僕が演奏するケーナは、「メソッドがない楽器」と言われる。
かなり初歩的な演奏技術から、遍く広く流布した、ないしは共通の、確立された奏法がないため、そう言われるのも致し方ないのかもしれない。また、このような状況は、特定の民俗ないし社会の文化的背景が色濃く反映されている諸楽器についても、同様に見受けられるだろう。

(注:今日の音楽的状況を鑑みれば、西洋の十二平均律音楽の呪縛から一切逃れられている音楽に巡り合うことの方が困難である。非常に多くの国々や地域で、あらゆる楽器が、その音色に還元され、楽器それ自体として聴かれる時、その奏法の基礎が、ある程度、十二平均律に置かれるのは免れない状況にある、と言わざるを得ない。以後、これを前提として話を進める。)

しかし、メソッドそれ自体が、その楽器の演奏の基礎なのではない。また、多くの教本が世に出されている楽器についても、いずれの教本もその楽器の演奏について万能な「マニュアル」にはなり得ない。楽器演奏におけるあらゆる問題は、常に創意工夫を持って対処されなければならない。

前述のような「メソッドがない楽器」は、各々の演奏における問題や課題に則って、奏者一人ひとりがメソッドを作り上げるところから任されているのだ、という意識を持つより他ない。その時、あらゆる楽器の、今日までに試されてきた演奏法が参考になり得る。

例えば、僕のケーナ奏法はその基礎を、主にバロックとモダンのリコーダー奏法に大きく依拠しているが、当然のように横吹きのフルートやクラリネットの奏法も参考にし、必要に応じて取り入れている。また、細かな、しかし非常に重要な手や手首、腕の用い方については、ヴィオラ・ダ・ガンバの奏法まで応用されているし、身体の在り方は武道から多くのヒントを得ている。

少し話は逸れるが、先日リハーサルの最中に、「本当に装飾が少ないね」と言われ、自分の演奏と練習法について気付かされる点があったので記しておこう。
リハーサルはまず、音楽の構造を演奏する全員で確認する場として必要なわけだから、基本的に、装飾は必要最低限、ないしは一切付さないようにしている。日頃の基礎練習も当然、同様である。また、僕の演奏スタイルは、他のケーナ奏者と比較しても、(余計な)装飾が少ないかもしれない。これは僕の、音(色)そのものへのこだわりのためであるが、こうした趣味的な部分は、常に変化し続ける。
しかし、楽器演奏の修練において、特に(ケーナのように)西洋十二平均律の演奏を容易にするように設計されていない楽器の練習においては、これは非常に重要な習慣ではないかと思う。(ヴィブラートや経過音なども含む、広い意味での)装飾を前提とした練習は、奏者にしばしば「悪い癖」を植え付ける。よって、ケーナについて言えば、非常に多くの(ないし、ほとんどの)奏者が、表面的には高度に見えて、しかし「正確な音程が取れない」という状況に陥っている。
装飾は(文化的背景はありつつ)あくまでも奏者個人の嗜好、それ故にその人の音楽そのものが問われる部分であるから、優れた演奏家たちに(正しく「真似をする」ことによって)学ぶところは大きい。しかし、「それしかできない」という状況は好ましくない。

話を戻しつつ、本文を結ぼう。
優れた基礎は、幅広い応用力(応用可能性)を持つ。基礎の良し悪しはそこで量られると言っても過言ではない。
また、楽器の演奏における基礎は、あくまでも奏者個人にとっての基礎である。つまり、その奏者にとって十分に血肉化され、常にその表現を助けてくれるものである限り、いくら幅広くても、どれほど深くとも、一向に構わないのである。

日々、探究は尽きない。

2017年1月6日金曜日

祖母の訃報

昨夜、新年の初仕事(とある舞台のための音楽のレコーディング)を終え帰宅すると、長年病床にあり、先月から危篤状態が続いた祖母が、亡くなったと報せを受けた。
今、僕の胸中に残る後悔はまず、「元気なうちに、あのたまらなく美味いけの汁と人参の子和えの作り方を教わっておけばよかった」ということである。しかしもう遅い。記憶を噛みしめるか、記憶を頼りに再現してみる他ない。

その祖母の生涯の伴侶である祖父は、齢85にして雪道も自ら車を走らせるほど元気だが、祖母の存在が生き甲斐であったことは間違いなく、その落ち込みは想像に難くない。
祖母が倒れてから、祖父は家事を覚えた。それまでは、家の中のことは一切していなかったと思う。少なくとも僕は見たことがなかった。
彼らの趣味は夫婦そろっての旅行だった。暇を見つけては、あちこちへ出かけていた。祖父は根っからのどけちだが、旅行には毎年予算を設けていたという。
祖母は倒れる少し前に、どうしてもある所へ旅行に行きたがったという。どけちな祖父は財布のひもを締め、渋ったが、祖母は自分の保険を解約して強行した。それが最後の夫婦旅になった。

祖父はその後、僕と一緒に酒を呑む度、同じようなことを繰り返し言うようになった。
つまりそれは、「元気なうちに、もっと楽しませてやればよかった。お金を使ってあげればよかった」ということだった。

その願いも、もう叶わない。

祖母の死について、今はまだ実感が湧かない。まだ何も見ていないのだから当然である。
しかし、もう長いこと覚悟が出来ていたから、報せに際して特段大きな驚きもなかった。
それは恐らく、先月、心臓が止まった状態で病院に緊急搬送された時に、「祖母危篤」の報を受け、翌日すぐに会いに行ったからだと思う。人工心肺装置によって辛うじて命ある祖母は、その生の証明である脳と、唯一持つ意思伝達の道具である瞼でもって、僕の声に必死に反応し、涙していた。それが最後に交わした「言葉」であった。