2017年4月7日金曜日

20年

ケーナを始めて20年になった。
この楽器を吹く悦びは、初めて手にした時のままの純度で、今も僕を捉え続けている。
一方で、演奏家としての僕は、益々貪欲になっている。つまり、逆説的な言い方になるが、上手くなればなるほど、下手になる、そんな気分がある。一つの問題を解決すれば、今まで見えなかった課題が見えてくる。その度に新たな要求が増える。まぁ、そういうものなのだろう。

今更ここで、この楽器との馴初めや僕自身の出自をドラマティックに語って、説得力を持たせようとは思わないが、出逢いからこれまでを少し振り返っただけでも、沢山の幸運が思い出される。

道半ば、とよく言うが、僕にはあまりその実感がない。定められたゴールなど端から存在しない。そもそも、道すらないところを手探りで彷徨っているといった様子だ。

生涯現役を公に宣言するような見苦しい真似はしたくない。やめるべき時にやめる。演奏家としての僕に責任というものがあるとしたら、その判断を任されていることぐらいであろう。

20年間ほぼ毎日、この楽器を手に取り、吹いている。
木や竹といった自然の素材で出来ているから、気候の変化も常に影響するし、激しい演奏を立て続けにこなした後などは楽器に疲れが出るものだから、1日ぐらい休ませてやる日もあるが、2日吹かないでいると僕の体調が悪くなる。身体に悪い気でも溜まっているように優れなくなる。面白いものである。

9歳でこの楽器を初めて手にした。
色々あって、家で練習出来るタイミングは限られていたので、よく見計らって音を出さねばならなかった。それでも毎日触った。夜中など、音を出せない時は、歌口のところに耳を持っていき、指孔を開けたり閉じたりしながら、筒の音を聴くのが好きだった。異世界へ誘うような、何とも豊かで美しい音がする。この楽器はこういう音で鳴りたがっているんだ、と教えられているような感じがする。

まだまだである。
しかしそれでも、僕のケーナの音はすでに、僕の声より僕の声に近い。





2017年2月25日土曜日

解釈

Michael EndeがJoseph Beuysとの対話(『芸術と政治をめぐる対話』)の中で、こんなことを言っている。
「なにかある作品を書きはじめると、最後がどうなるのか、私にはまるでわからない。私としては、そのときそのときに書きながら、決定するだけなのです。力の及ぶかぎり適切に、可能なかぎり正直に、決定しようとするだけなのです。まちがっていても、まちがっていなくても、すべてをひっくるめて。」

解釈することにはいつも、「"こちら"側へ引っ張ってくる」という恣意性が伴う。解釈には常に、解釈する側の恣意性が含まれ、また、そうした恣意性が含まれないならば、それは解釈ではない。客観的であろうとする意図には主体がある。

常々、僕は、先ず、生き方として音楽家を選んでいて、音楽家としては演奏家というよりむしろ作曲家である、と言っている。作曲家としての僕が要求することを、演奏家としての僕は、最低でも及第点程度には実現できなくてはならない、というだけのことである。また作曲家としての僕は、僕自身の生を通して見た世界を、音に落とし込むというか、音として描くような感覚をいつも持っている。この世界の大部分が言葉にならない。そんな時、音の方が、僕にとってはよっぽど役に立つ。だから、僕が書いた曲を演奏する時の僕は、僕が生きる世界そのものを音にすることを目指す、そういう感覚がある。そうして最終的に、何も創り出していない、という思いに至る。だから作り続けるのかもしれない。

そうしたわけで、先に引いたEndeの言葉には心底共感する。僕の音楽作りも正しく同様である。
自分自身が生きる世界のありのままを出発点に、何かを表現しようと試みる時、世界は定義も解釈も拒み、捉えようのない、測り知れない存在として立ち現れる。そこに飛び込むのである。まずはその一歩目の踏み出しが大きな挑戦である。あるいは突発的な、偶然のような。あとはずるずると引きずり込まれるか、二歩目、三歩目と恐る恐る闇の中を行くか…行きつく先など見えるはずがない。集中力の途切れか何かでもって、とりあえずの諦めが付く程度には体裁を整え(ここは職人技!)、筆を置く。仕方がないのである。生そのものが果てしない音楽であるかもしれないのに!僕の場合はそうなのである。

作者に彼の作品の解釈を求めることは、拷問に等しい。言葉なら要約も職人的技能の一つであろうが、もともと言葉にならぬものを言葉にせよという時点で、無理がある。また、音楽なり美術なり、言葉にならぬものを表現しているはずなのに、ぺらぺらと口から出任せで解説する人や、そんな言葉がないと作品を他人に提示することすらできない作家が少なからずいることも、僕は好ましくないと思っている。少なくとも僕はしたくない。

解釈はご勝手に、である。
僕の音楽は、聴いてくれさえすればそれでいい。

2017年2月18日土曜日

行動する知識人

行動する思想家や知識人が好きだ。
僕は音楽家だから、僕自身、音楽を作ることは僕なりの「行動」のスタイルだと信じている。

年来、座右の銘を問われれば、迷わず、大森荘蔵の『哲学的知見の性格』の結びの言葉を挙げている。
「元来、生きることは、知ることの様式ではあるまいか。」
新しい手帳を買うと、見返しにこの言葉を書くのが、年に一度の習慣となっている。
大森はまた『ことだま論』の中でも、「生きる、とは、知覚的に生きる、ことなのである」と書いているから、この考えは、哲学者としての彼の生涯の大部分に通底してあったのだろうと思う。

この言葉に出逢うまで、生は死を以って証明される、と考えていた。
常に現在進行の生の営みの中で、その在り様そのものを、それが生であることを、いかに証明し得るだろうか。死を以ってして、なるほど生きていたのだ、と想起され、語られるのではないか。

いや、生は実感として、確かにある。そしてそれは、あらゆる「知ること」に強く結びついている。それどころか、知ることによって実感される、と言える。

Mohandas Karamchand Gandhiは
「Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.(明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ。)」
と言った。

ここで誤ってはいけない。死は知ることの目的ではない。死は生の証明にはなり得るかもしれないが、知の証明にはなりようがない。死は万人に等しく訪れる出来事でしかなく、死そのものがどんなものかは、生のうちにある我々は経験としては一切語り得ない。生は生によって、つまり知ること、学ぶことによって、私自身には証明され、行動(表現)によって我が生は他者と共有される。

ゆえに、虚無主義はとても知的な態度とは言えず、無意味であり、時に有害ですらある。殺戮を、独裁を、あらゆる不誠実と不正義を許してしまうのも、虚無主義ではないか。三木清も「もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立ち直らねばならない」と書き、当時のインテリジェンスのあり方を危惧しているが、この状況は今日もなお続いてはいないか。

だから僕は、虚無主義的な態度に至る話題や会話には、何ら興味を持たない。学ばず生きること、知ることを放棄した生き方を、生きていると、どうして見なし得ようか。

学び続ける人の表現には生の証明がある。このような人を僕は知識人と呼び、その生き様をアルテ(芸術・業)として受け止めたい。
僕は、行動する知識人が好きなのだ。

2017年2月9日木曜日

新たなプロジェクト

今月23日から31日までスペインに行っていた。
今回の滞在の第一の目的は、新たに始動するEsteban Valdiviaとのプロジェクトのリハーサルであった。
更に、この短い期間中、3日間はカンタブリアの海を眺めるアストゥリアスに滞在していた。これはこのプロジェクトの、いわばデビュー公演を、地元のミュージシャンであるPablo Canalísを加えた3人編成で行うためであった。この公演は結果として大成功で、見込み100名、定員120名のところ、170名以上の観客が集まった、と主催者は喜んでいた。そんなことより僕は、まず会場(Centro de Cultura Instituto Antiguo de Gijón)の音響の素晴らしさを大いに愉しんだ。あのような会場に日本で巡り合うのは容易ではない。空間も含めて楽器なのだ、ということを痛感させられる。

ところで、このEsteban Valdiviaという男は本当に面白い。
彼はミュージシャンである。元々はプログレッシブ・ロックのドラマーであったが、今は専ら「パーカッショニストな笛吹き」(自称)であり、「ドラムは最悪な楽器だ」と言って憚らない。
また彼は考古学者であり、南米、とりわけエクアドルの海岸地域をフィールドとするプレイスパニカ時代の音楽遺跡研究者であり、人類学者でもある。そしてまた、こうした考古学者としての仕事の中で接した楽器のレプリカ製作の第一人者でもあるから、楽器製作家であり、陶芸家でもある。
その上、自分で拵えた物をどこでも売りさばくことに極めて長けた才を持っている商人でもある。(事実、数年前は露天商をやったりもしていた。)
彼は今、マドリッドに暮らし、大学の博士課程に籍を置いているが、エクアドルに家を建てている最中で、10月にはそちらに引っ越すことにしているそうだ。
そして彼はネイを吹くスーフィーである。
彼の奥様はデザイナーであり、考古学者でもあって、こちらも同様のフィールドの遺跡研究に従事し、デザインと言語学の面から紐解こうとしている。Estebanの商売には彼女のデザインが必要不可欠となっている。

という男とこれからプロジェクトを始める。
先ずは11、12月にブラジル、アルゼンチン、チリ、エクアドル、グアテマラを跨ぐツアーを敢行しようと計画中である。

僕らの音楽作りは、僕にとってすこぶる刺激的で、面白い。新たな音楽的地平を拓く道標となるだけでなく、音楽観そのものの転換すらもたらす可能性を持つ経験だ、とどこかに書いたが、これもあながち大げさな表現ではない。

先ず、たくさんの楽器をテーブルに並べる。
3,000年以上前に用いられた「Vasija Silbadora(水差しホイッスル)」のレプリカから、マヤのトリプル・フルート、アマゾンのシャーマンが用いていた人骨のケーナ、ペリカンの骨の笛、コンドルの羽軸など南米大陸を故郷とする楽器たちをはじめ、タイのケーンやトルコのネイなんかも並ぶ。僕がいつも使っているケーナをこれらの楽器と一緒に置くと、まるで西洋の楽器に見えるから不思議である。
そうして並べた楽器を一つ一つ手に取り、演奏してみる。これらの中には、すでに元々の奏法が分からなくなってしまったものも少なくない。そういう時はEsteban曰く「楽器が教えてくれるのを待つ」しかない。そもそも楽器というのは、楽器自身が鳴りたいように鳴らしてくれる人の手元に辿り着くのを、じっと待ち侘びているようなところがある。
そうしてやがて静寂を破って音が鳴り始める。小さなアパートのキッチンに森が立ち現れたりするから面白い。
楽譜など用いようがない。和音を奏でる楽器(マヤのトリプル/ダブル・フルートなど)は、その時代に生きた人々の音楽、とりわけ和声感覚を我々に教えてくれる。西洋平均律にすっかり飼い慣らされた今日の我々にとっては新たな音宇宙である。「不協和音」などという表現は、この意味で、音楽的知見の狭さを露呈するに過ぎない。
演奏し、録音する。それを確認し、練り上げて、構築していく。作曲家としての僕は、「どこに辿り着くか予想だにできない新鮮な感じを保ちたい」などと思いつきを言っては、緩やかに方向性を示してみる。そしてまた、練り上げる。
徐々に楽器の演奏は、「遊び」という元来の姿を取り戻す。楽器に誘われ、時空を旅するような感覚がある。

リハーサルの様子から、少し僕らの音楽作りの方法を説明すると、ざっとこんな感じである。

音楽は言葉にならない。言葉にならないから音楽なのである。僕らの音楽もまた、体験してもらう他ない。
いつか、このプロジェクトでの公演が日本でも実現出来たら、と願っている。

2017年1月14日土曜日

基礎

僕が演奏するケーナは、「メソッドがない楽器」と言われる。
かなり初歩的な演奏技術から、遍く広く流布した、ないしは共通の、確立された奏法がないため、そう言われるのも致し方ないのかもしれない。また、このような状況は、特定の民俗ないし社会の文化的背景が色濃く反映されている諸楽器についても、同様に見受けられるだろう。

(注:今日の音楽的状況を鑑みれば、西洋の十二平均律音楽の呪縛から一切逃れられている音楽に巡り合うことの方が困難である。非常に多くの国々や地域で、あらゆる楽器が、その音色に還元され、楽器それ自体として聴かれる時、その奏法の基礎が、ある程度、十二平均律に置かれるのは免れない状況にある、と言わざるを得ない。以後、これを前提として話を進める。)

しかし、メソッドそれ自体が、その楽器の演奏の基礎なのではない。また、多くの教本が世に出されている楽器についても、いずれの教本もその楽器の演奏について万能な「マニュアル」にはなり得ない。楽器演奏におけるあらゆる問題は、常に創意工夫を持って対処されなければならない。

前述のような「メソッドがない楽器」は、各々の演奏における問題や課題に則って、奏者一人ひとりがメソッドを作り上げるところから任されているのだ、という意識を持つより他ない。その時、あらゆる楽器の、今日までに試されてきた演奏法が参考になり得る。

例えば、僕のケーナ奏法はその基礎を、主にバロックとモダンのリコーダー奏法に大きく依拠しているが、当然のように横吹きのフルートやクラリネットの奏法も参考にし、必要に応じて取り入れている。また、細かな、しかし非常に重要な手や手首、腕の用い方については、ヴィオラ・ダ・ガンバの奏法まで応用されているし、身体の在り方は武道から多くのヒントを得ている。

少し話は逸れるが、先日リハーサルの最中に、「本当に装飾が少ないね」と言われ、自分の演奏と練習法について気付かされる点があったので記しておこう。
リハーサルはまず、音楽の構造を演奏する全員で確認する場として必要なわけだから、基本的に、装飾は必要最低限、ないしは一切付さないようにしている。日頃の基礎練習も当然、同様である。また、僕の演奏スタイルは、他のケーナ奏者と比較しても、(余計な)装飾が少ないかもしれない。これは僕の、音(色)そのものへのこだわりのためであるが、こうした趣味的な部分は、常に変化し続ける。
しかし、楽器演奏の修練において、特に(ケーナのように)西洋十二平均律の演奏を容易にするように設計されていない楽器の練習においては、これは非常に重要な習慣ではないかと思う。(ヴィブラートや経過音なども含む、広い意味での)装飾を前提とした練習は、奏者にしばしば「悪い癖」を植え付ける。よって、ケーナについて言えば、非常に多くの(ないし、ほとんどの)奏者が、表面的には高度に見えて、しかし「正確な音程が取れない」という状況に陥っている。
装飾は(文化的背景はありつつ)あくまでも奏者個人の嗜好、それ故にその人の音楽そのものが問われる部分であるから、優れた演奏家たちに(正しく「真似をする」ことによって)学ぶところは大きい。しかし、「それしかできない」という状況は好ましくない。

話を戻しつつ、本文を結ぼう。
優れた基礎は、幅広い応用力(応用可能性)を持つ。基礎の良し悪しはそこで量られると言っても過言ではない。
また、楽器の演奏における基礎は、あくまでも奏者個人にとっての基礎である。つまり、その奏者にとって十分に血肉化され、常にその表現を助けてくれるものである限り、いくら幅広くても、どれほど深くとも、一向に構わないのである。

日々、探究は尽きない。

2017年1月6日金曜日

祖母の訃報

昨夜、新年の初仕事(とある舞台のための音楽のレコーディング)を終え帰宅すると、長年病床にあり、先月から危篤状態が続いた祖母が、亡くなったと報せを受けた。
今、僕の胸中に残る後悔はまず、「元気なうちに、あのたまらなく美味いけの汁と人参の子和えの作り方を教わっておけばよかった」ということである。しかしもう遅い。記憶を噛みしめるか、記憶を頼りに再現してみる他ない。

その祖母の生涯の伴侶である祖父は、齢85にして雪道も自ら車を走らせるほど元気だが、祖母の存在が生き甲斐であったことは間違いなく、その落ち込みは想像に難くない。
祖母が倒れてから、祖父は家事を覚えた。それまでは、家の中のことは一切していなかったと思う。少なくとも僕は見たことがなかった。
彼らの趣味は夫婦そろっての旅行だった。暇を見つけては、あちこちへ出かけていた。祖父は根っからのどけちだが、旅行には毎年予算を設けていたという。
祖母は倒れる少し前に、どうしてもある所へ旅行に行きたがったという。どけちな祖父は財布のひもを締め、渋ったが、祖母は自分の保険を解約して強行した。それが最後の夫婦旅になった。

祖父はその後、僕と一緒に酒を呑む度、同じようなことを繰り返し言うようになった。
つまりそれは、「元気なうちに、もっと楽しませてやればよかった。お金を使ってあげればよかった」ということだった。

その願いも、もう叶わない。

祖母の死について、今はまだ実感が湧かない。まだ何も見ていないのだから当然である。
しかし、もう長いこと覚悟が出来ていたから、報せに際して特段大きな驚きもなかった。
それは恐らく、先月、心臓が止まった状態で病院に緊急搬送された時に、「祖母危篤」の報を受け、翌日すぐに会いに行ったからだと思う。人工心肺装置によって辛うじて命ある祖母は、その生の証明である脳と、唯一持つ意思伝達の道具である瞼でもって、僕の声に必死に反応し、涙していた。それが最後に交わした「言葉」であった。

2016年12月27日火曜日

おおきな木

子どもの頃から大好きで、幾度となく繰り返し読んだ絵本がある。
Shel Silversteinの『おおきな木』(原題:The Giving Tree)がそれである。今は村上春樹による翻訳で出ているが、僕が持っていたのは本田錦一郎によるもので、こちらの方が優れていると思う。

僕は、11歳で母方の祖母を失ってから、不思議なことに「死にたい」と思うことはなかったけれども、時々「もうこれ以上生きていたくない」と思うことがあった。そんな時は必ずと言っていいほど、この絵本を開いた。自ずと涙が零れ落ち、裏表紙を閉じた後、ほんの少しだけ世界が違って見えた。

我々はもしかしたら、奪われることにも、奪うことにも、慣れっこになってしまっているかもしれない。

僕は、人は思想し、思想が社会を構築し、その社会の中でまた新たな思想が萌芽し、広まり、より良い生の営みのために働くのだ、と信じたい。無論、ここで言う社会とは、複数の人々の有機的な繋がりによる総体のことであり、文化的にしろ、経済的にしろ、あらゆる事象がここに包含されている。

しかし実際には、今日、思想は無力化されているように見える。何故か。簡潔に言えば、経済システムが社会を構築する基盤になってしまっているからである。資本主義は国家を、そして社会全体を、搾取の構造にした。無から有を生み出す幻想である「利子」の発明のおかげで、搾取の構造から抜け出せないままに死に至る我々は、裏で繰り返される殺戮と破壊にすら盲目である。
我々はそうした構造の中で思想し、表現することを強いられている。ほとんどの、より良い未来への道標となり得る鮮烈な思想が、そしてその表現が、人々に行きわたり、その役目を果たす前に、黙殺される。

話をあの絵本に戻そう。
テーマを見出すとすれば、それは「与える(give)」であろう。

木は少年に「ただ」与え続ける。一切の見返りを求めず、持てるものを全て与える。少年が舟を拵えるために、木は自分自身の肉体のほぼ全てすら与えてしまう。そこで、こう綴られる。
"And tree was happy... but not really."
これを村上は「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」と訳し、本田は「きは それで うれしかった・・・だけど それは ほんとかな?」とした。本田の方は名訳だと思う。

搾取の構造が家庭や親子の間にまで浸食してしまった時、その子は生きる術を奪われた感覚に苛まれ、この世界の終わりを願うだろう。
見返りを求める愛など、愛ではないのに、そんなことすら知らずに親になってしまう人々がいる。僕の親もそうだったが、親がすべての手本であるわけがないし、家族が世界の全てではない。

この絵本は、僕に、与えるということの美しさを教えてくれた。それと同時に、奪う側の傲慢さがいかに恥ずべきものかも。

人類の経済の原初形態は、「交換」でも「贈与」でもなく、「あげたり、もらったり」ではないか。学生時代にこのテーマについて考える契機を与えられて以来、その時に受けた講義の影響もあって、今でもこう信じている。与えられる時に与えらえる物を与え、貰えるならばありがたく貰う。負債の感情なしに、また、見返りの要求もなしに。ここには所有の概念がほとんどない、または、極めて流動的である。「私のもの」は何もない、私が創り出したものでもない、全て与えらえれたものである、という感覚。その時、自然の在り方は愛そのものであり、「あげたり、もらったり」はその共有の作法である。

しかし、木のしあわせだって、願わなくては。

2016年12月22日木曜日

「簡単な音楽」?

「簡単な音楽」「易しい曲」などといった言葉が、演奏家の間で交わされるのを、しばしば耳にする。何の考えもなしに、特に注意も払わず使っているのだろうけれども、よく考えてみれば疑問が残る。果たして、「簡単な」音楽や曲などというものが、あるのだろうか、と。

Dino Saluzziはよく、こんなことを言う。
「簡単なことなどない。難しいことというのもない。シンプルなことと複雑なことがあるだけだ。」
そして、続けてこんなことも言う。
「良い音楽、悪い音楽、というのもない。良い演奏と悪い演奏があるだけだ。」

音楽は、注意力の、ないしは、意識の産物だ、と言える。
音が音楽になる時、そこには、「聞こえる」という状態から踏み出し、「(目的意識や意志を伴った)聴く」という行為を自発的にする聴衆の出現が不可欠である。
音楽の要素は音と静寂であり、それらを組み合わせることが作曲である、とJohn Cageは言ったが、その音と静寂の組合せを音楽として聴く意志を持った聴衆の存在が必要であるから、音楽はその在り方からして、他者依存的である。

先日twitterにこんなことを書いた。
「楽器の練習は常にppから始めるとよい。用意された静寂から、音が生じる瞬間を、しっかりと捉えるためにも。fやffはあくまでも対比である。ppの意志は、演奏者側だけのものではない。むしろ、しばしば聴き手にこそ高まる。また、優れた演奏家は優れた聴き手でもある。小ささは弱さではない。」
楽器の演奏において、第一の聴衆は演奏者自身である。
また、演奏というと、すぐ既存の曲の演奏のことを思い浮かべてしまうので、忘れられがちな点がある。楽器の演奏とは先ず、音を生じさせることなのである。(無論、自分自身の身体から生じているとは言い難い。その感覚は、演奏上の意識や姿勢としては大切かもしれないけれども、実際には楽器を介して、である。)
先ず、静寂を用意する。音を待つ感覚である。この時点で「聴く」ことが既に始まっている。始まっていなければ、音は出してはいけない。
高まった聴取の意識の中で、音を出す。(ここで演奏上の助言をするとすれば、どんな弱音でも、楽器が鳴っていなければならない。)意識は、すぐさまその音の出現を感受する。立ち現れるピアニッシモに対して耳は研ぎ澄まされていく。

たとえ一音でも、この意識の集中を実現するのは、容易なことではない。私たちはしばしば、複雑で技巧的な音の組合せに興味を引かれがちだが、本当のところ、良い演奏というのは、この極限にまで高められた意識が、奏でられる一音一音に行き届いているもののことではないだろうか。一音が音楽になり、ハ長調の音階練習が美しいコンポジションとして響く可能性が、ここに秘められている。

「簡単な音楽」などない。あるのは、そんなことを言ってしまう演奏家の傲りと自惚れだけである。

2016年12月16日金曜日

考える

僕は日常的に3つの言語で情報を得ている。日本語、スペイン語、そして英語である。
また、メールやチャットなどを用いた日々のやり取りの8割以上が、今はスペイン語になっている。
必要に迫られて、である。別段、得意なのではないし、専門教育を受けたのでもない。聞いたら喋らずにはいられないし、読めば書かずにはいられない、それだけである。

ジャーナリズムは死んだ、と言う人がいる。マスメディアのジャーナリズムはそうかもしれない。資本が真実を封殺し、言論を捻じ曲げ、報道を広告にしてしまっていては、そうと認めざるを得ない。
僕は子ども時代から、テレビをあまり観ない。一人暮らしを始めて10年近く経ったが、テレビを持ったことがない。たまに中華料理店なんかで観ると、その内容の無さに辟易し、操られ方にぞっとする。新聞もまた然り。死んだと言われても仕方ない。

しかし、である。
インターネットの普及、殊にSNSの浸透による効果の一つは、本来は通信であったものが報道の役割を担うことにある。その発信は容易に一人で出来て、その内容は圧倒的にリアルである。
アレッポの惨状を、私たちは今や、カメラとマイクを携えたジャーナリストを通じてではなく、爆撃されている現場にいる一般市民が発信するスマートフォンの映像で知るのである。今この時起こっている現実が、「これが最後のメッセージになると思う」という生きた言葉によって突き付けられるのである。
もはやこれは情報ではないかもしれない、とすら思える。
2001年9月11日、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでいく映像を、我々はあの時、瞬時に情報として読み解くことが出来ただろうか。現実であることすら疑ったのではないか。当然である。2011年3月11日、津波に飲み込まれていく街の映像を、我々はすぐに現実として受け止められただろうか。あの映像を、現場にいない人たちは、情報的に理解する必要があったのではないか。リアリティは希薄となり、「地震」「津波」…と言語化され、理解され、記憶され、やがて忘却された。

我々、日本で教育を受けた者は往々にして、知識を問われることには慣れっこだが、考え、意見を問われることに対しては、随分と不甲斐ない。
しかし、「考えること」を伴わない「知ること」は、今や徐々に必要とされなくなってきているのではないか。情報は氾濫している。知っていることに、かつてほどの価値はない。問われているのは、あなたの知識ではなく、考えである。知識は知的に考えることを助け、考えの及ぶ世界を広げ、考える態度を寛容にするのに役立つ、いわば道具である。あなたの考えこそが、あなただけに求め得るものである。そして、あなたの考えはあなたの行動を動機づける。「アームチェアの人類学者」が、なぜ常に、実践者としてフィールドに出る人類学者による批判の的であったのかを思い出すとよい。

情報の手前、現実により近いものが、日々、世界のあらゆるところから届けられる。時に、目を覆いたくなるものも含まれる。目を覆うのも自由である。じっと見つめるのも自由である。重要なのは、その時あなたは何を感じ、そして、考えたかである。考えるのである。たとえ、捉えどころがなくとも。そうして、今、何をすべきかが少しずつ見えてくるはずである。

2016年12月10日土曜日

ふと思う

「これらの機械を全て外せば、死ぬということだ。自力で生きているのは、脳だけだ。」
死を眼前に控えた祖母を前に、僕は、手話で父にこう伝えた。こんな言葉を吐いたのは、手話に限らず、日本語でもスペイン語でも英語でも、未だかつてなかったことで、自分で自分の言葉に少々驚いたが、そういうものなのかもしれない。
祖父と3人、我が家三代の男だけで、しばらく祖母に話しかけたり、じっと眺めたりしていた。最初の脳卒中から約10年が経っている。祖母はその間、度重なる再発や併発症による病状悪化で、病院や施設を転々としてきた。
今も危篤状態は続いているが、不思議なもので、こちらは一種の覚悟というか、これこそ生の営みなのだという諦めというか、そういう感情を得られて、落ち着いている。死は、誰にでも等しく訪れる。

郷里に行くと、時折、胸が苦しくなる。自分では赦しているつもりでも、記憶は甦ってくる。
特に父親の存在を見るにつけ、母親の存在を思い出すにつけ。

僕は音楽を聴いたり、楽器を演奏したりすると、殴られるような家庭で育った。
音楽についてだけではないが、とりわけ聾者である父親が理解し得ない音楽については、過敏な反応があった記憶がある。家庭の中には常に暴力があった。それが日常であった。
また、特に母親は、一家を巻き込むまでに、とある新興宗教にのめり込んでいた。もはや、狂っていた、と言っていいほどだったと思う。僕が「信じない」と言った後は、母親によって、一家に降り注ぐ数々の災厄の原因は僕の存在だとされた。「死ね」「殺す」の類の台詞を彼女の口から何度言われたか知らない。愚かなことだと思う。

僕は母方の祖母の死を機に、常に家から逃亡したいと思うようになった。おかげで独り立ちの術も早々に覚えた。12歳から人前で笛を吹いて稼ぐようになったのも、こうした理由があったからである。

ついに、当然のことながら、両親どころか、家族・親戚の誰一人にも、僕の音楽家としての生き方、僕の音楽を理解し応援してくれる人は、現れなかった。

両親は離婚し、それぞれに新たな伴侶を得て、新たな生活を送っている。
一家離散、というよりは僕が自ら断絶していた時期が続いたが、祖父が送ってきた一通の手紙を契機に、僕は郷里に時折戻ったり、連絡を取ったりするようになり、今日に至る。祖父は手話が全く出来ないので、父とのコミュニケ―ションの繋ぎ役としても、僕は都合の良い存在なのかもしれないが。まぁ、何でもよい。

先日、6、7年ぶりに自転車を手に入れた。
初めて乗り方を覚えた時から、両足を地に着けず、風を切って移動するのが、僕には自由な根無し草を想わせて、爽快なのだ。10代の頃は日に150kmでもペダルをこいで、あちこち出かけた。
いつでも、どこへでも行ける、そう思わせてくれる。

「移動」は、「そこにある」と「そこにない」を繰り返す。その意味で、それぞれの瞬間は、死に近く、また、音に近い。などということを、ふと思う。

今日のような晴天は、僕を、ここではないどこかへ誘う。