2018年12月25日火曜日

ハイメ・トーレス


現地時間昨日、2018年12月24日午前8時15分、僕が心から敬愛し、またその人生の一部を共有することを許された数少ない真の巨匠、人類の遺産と呼ぶにふさわしい真の芸術家の一人、フォルクロリスタ/チャランゴ奏者のハイメ・トーレスが亡くなった。

まだ実感がない。アルゼンチンを中心に、彼が足跡を遺した世界各国のメディアが彼の死を報じているが、僕はまだ信じられないでいる。
彼の奥さんが、今月初旬に「ハイメが会いたがっている」と連絡をくれた際、僕はパタゴニアにいて、「クリスマスが終わったら少し仕事が落ち着くし、ハイメも退院しているだろうから、会いに行くよ、近所だし」と返事をしたばかりだった。
そして昨日も、「何やら質の悪い冗談が流れて来たよ。このフィエスタ明けに会いに行くから、よろしく」と書いた。

彼が遺したもの、彼の生涯について、ここで僕が語る必要はないと思う。
知らない方は先ず、是非その音楽を、その生き様を、数多ある録音やライヴ映像、テレビ出演時の動画など、何でもいいから一度味わってもらいたい。

彼と知り合ったのは今から3年半ほど前のこと。あのスピネッタの元パートナーとしても有名なモデル/歌手のカロリーナ・ペレリッティを通じてであった。
「おぉ、我が兄弟よ。カロリーナは本当に君のことが好きみたいだね。だから実はとっても会いたかったんだよ。まずは楽器を持ってすぐにでも来ておくれ。」電話口から聞える声に、涙が出るような感じがした。
以来、週に3度リハーサルに通った。1時間の練習のあとは、3時間のワイン・タイム。もちろん楽器を手放さず。豊かな時間だった。
沢山のことを教えてくれた。アルティプラーノ音楽の正に「生き字引」だった。
(彼の病気療養や僕の活動拠点の変化などもあって)決して期間は長くなかったが、40周年を最後にその歴史に幕を閉じたフェスティバル「タンタナクイ」での演奏を皮切りに、あちこちで何度もステージを共にした。今思うと夢のようだった。

初共演からほどなく、僕はハイメ・トーレスの正ケーナ奏者になった。非南米出身者ではもちろん初めてのこと。全ては彼の優しさと寛容さ、好奇心のおかげだと思う。
僕にとっては全てが学びの時だったので、あまり実感が湧かなかったのだが、ラ・プラタでの演奏会の時、楽屋で彼の奥さんに、「ハイメのケーナ奏者ということはね、タンゴで言ったらピアソラやレオポルド・フェデリコのヴァイオリニストということよ。ジャズならマイルス・デイヴィスのサックスよ」と言われてハッとした。
その公演の後、「今日、やっと一つになれたな。よかった。クエッカが最高にクエッカだった」と言って、ハイメは僕の額にキスしてくれた。僕にとっては洗礼のようなものだった。同じ事を僕にした人は他にディノ・サルーシとシルビア・イリオンドだけだ。

ブエノスアイレスの老舗タンゴ・ハウスでの公演の時。
開演前から酔っていた客が、僕がステージに上がるなり、「おい、チノ!(中国人の意)お前みたいなやつに何ができる?ガハハハ!」と大声で叫んだ。周りの客もくすくすと笑ったのが分かったが、僕は特段気に留めなかった。よくあることだ、と思っていた。
するとハイメがマイクを取り、「このマエストロは我々の国から最も遠い土地、日本から来た。日本人でありながら、自分の血と肉を我々の土地の音楽文化で満たすために、心から愛し、深く学んできた人だ」と言って、「さぁ、聴かせてあげなさい」とソロを2曲やらせてくれた。会場は熱狂し、満場のスタンディングオベーションを頂いた。ハイメはとても嬉しそうだった。その後、その客はワインを片手に「自分がとても恥ずかしい」と言って詫びに来た。抱き合い、その夜はこの上なく美しいものになった。

いくらでも彼と過ごした時間のことは書ける。どれも鮮明に僕に焼き付いている。自ら調理してくれたリャマのアサードの味、一緒に空けたワインの香りまで覚えている。

だからここまで書いても、まだ実感が湧かない。

大きな扉を開いてくれた。大切な指針をたくさんくれた。信じられないほどの優しさで僕を助けてくれた。そして僕をパチャママと結び付けてくれた最初の人…。

本当に感謝しかない。

僕は「ハイメ・トーレスの最後のケーナ奏者」になってしまったが、これからも僕のケーナの音は風になって彼と共にあってくれたらいいと思う。その意味で、これからもずっと彼のケーナ奏者でいようと思う。




2018年2月22日木曜日

生まれ変わる

 「ヌミノーゼ」という言葉がある。19世紀末から20世紀頭を生きた神学者ロドルフォ・オットーが定めた概念だが、(思わず畏敬の念を持って首を垂れたくなるような)神威=ラテン語の「ヌーメン」から採った造語で、そう名付けられる以前からこうした感情は遍く広く人類は持っていたはずのものである。先日、友人の口から久々にこの言葉を聞いて、なるほど僕が先のアルゼンチン・ツアーでした経験はこれだったかもしれない、と改めて思い返していた。
 今日の我々は、動物的な自然状態で生きること、また地球の声を感受し続けることが困難であるのと同様に、こうしたヌミノーゼ体験を持つこともまた極めて難しくなっている。科学なる宗教を教育という洗脳で叩き込まれ、体験より情報に価値が置かれる時代においては、尚更のことであろう。
 ここに先のアルゼンチン・ツアーで僕が体験したことを2つばかり書き残す。

 コルドバ州サン・マルコス・シエラスを訪ねた時の事である。アルゼンチンで最もヒッピー文化が根付いていることで名高いこの街には、つい最近までカトリックの教会すら無かった。また住人間の経済システムも独特で、物々交換の習慣がまだ生きている。「あなた、玉ねぎ要らない?私、あなたの家の卵が欲しいのよ」といった具合に。
 この街での演奏会に、先住民コメチンゴン族のシャーマン夫婦が聴きに来てくれた。彼らは医者であり、薬剤師であり、マッサージ師であり、占い師であり、教育者であり、呪術師である。見た目は何ともない、Tシャツ、短パン、ビーチサンダルか裸足で歩く。知的好奇心に溢れ、ゆっくり静かに話し、歯を出して笑い、吸い込まれそうなほど美しい目で僕を見る。
 終演後、近づいて来て「あなたを我が家に泊めたい」と申し出てくれた。丁度、宿泊場所をこれから決めようという時だったので、「是非お願いします」と即答すると、「ただ、トイレには便座がない。シャワーは水しか出ない」と付け加えられた。それを聞いて他のメンバーはホステルに消えていき、僕はシャーマンの家に泊まった。(便座やお湯のシャワーに加え、ベッドも無く、床に布を1枚敷いて寝たわけだけれども。)
 翌朝、目覚めるとそのシャーマン夫婦にこう告げられた。「あなたは聖者だ、シャーマンなのだ。数日前から星を見ていて、何かがあることは知っていた。あなただったのだね。我々は時を司るんだ。あなたは音と静寂…。これから我々の聖地にあなたを連れて行って、我々のスピリッツ、アンデスの地にあなたを受け入れてもらえるか尋ねなければ。儀式を行う。さぁ、準備して行こう。」
 まずは川岸でアサードをし腹を満たす。川の水で四肢を清め、裸足になる。その後、彼らの聖地「石の家」まで、片道2時間ほどかけて、砂利道、茨の道を歩いた。途中、野生の馬に出逢い話しかけたりしながら…。本来はこの道自体、余所者は足を踏み入れることすら出来ない。
 そうして石の家に辿り着く。太古の昔に起こった噴火によって自然が生み出した見事な建築である。その中に楽器や薬草、煙草、コカの葉などを広げ、儀式をした。やがて煙が満ち、音と共に野を巡っていく。様々なものを見た。そうして僕は無事、「音と静寂を司る聖者(シャーマン)」として彼らに、そしてアンデスの魂に認められることとなった。
 帰り道、すっかり日は沈んでいた。しかし、空には星が照り、月が見守り、川が全ての光を集めていた。あれほど明るい夜は初めてだった。

 
photo by Hernán Vargas

photo by Hernán Vargas

 パタゴニアの入口の街バリローチェを訪れた時のことである。この地での最初の演奏会が終わった後、楽屋に1人の紳士がやって来て、こう言う。「私はロレンソ・シンプソン、獣医だ。この地に世界で最も大きなコンドルの住処があるのを知っているかな?今日の演奏を聴いて、どうしてもあなたをそこに連れて行きたくなった。私はそこのコンドルすべてを見分け、世話している。ただ…そこは誰でも入れる所じゃないんだ、私有地だからね。まずはオーナーとマテ茶でも飲んで欲しい。」もちろん「行く!」と即答した。
 オーナーは典型的なガウチョだった。今でも野生の馬を手懐けて乗りこなしていると言う。マテを飲みながら、しばらく四方山話に花を咲かせつつ、僕は彼の信用を得ようとした。「ところでお前どこから来たんだ?日本?信じられないな、俺よりスペイン語が達者じゃねぇか。あはは、まぁ、入っていいよ」と相成った。
 それはカッパドキアのような、こちらも自然が生み出したあまりに壮大な建築だった。ここに今は約500羽のコンドルが暮らしている。少なく見積もっても7000年前から、ここはコンドルの家だという。
 いざ登ろうとした時、ロレンソさんが「先週腰の手術をしたばかりだから、今日はやめとく。気を付けて行って来てくれ。羽一つ見つけられないと思うけど、欲は出さず、安全第一で」と言い出した。僕とこのツアーの相方であるエステバン・バルディビアと2人きりで挑むこととなった。
 登り始めた途端、迷った。無数の棘を持つ木が僕らを拒んだ。そんな手強い草むらを抜け出した直後、信じられないものを僕は見つけてしまった。コンドルの亡骸である。あまりに強烈なメッセージに立ちすくんだ。左右の完全な翼、それに連なる骨…胴と頭はすっかり食べられていた。コンドルは翼を広げれば2.5mから3mにもなる。大きなものだ。
 それを布に包み、山登りを続けた。結果、約350本もの羽を拾うことになる。
 何も言わずに持ち去ることは出来ない、と判断した僕らは、コンドルとこの大地の魂に許しを乞うための儀式をした。シャーマンとして僕が初めて行った儀式はコンドルのためのもの、ということになる。
 毎日朝5時前に起き、日に700kmも移動して食事に出かけるコンドル(ちなみに生きた肉は口に入れない)は、ちょうど家に戻り始める時間で、そう頭数が多くいたわけではなかったが、5羽ほどが事の一部始終を見て、僕らを観察し、儀式の様子を聴いているのを僕は終始感じていた。
 おのずと涙がこぼれた。全身が風になり、僕の存在は消え、音になった。
 儀式を終え、傾く太陽に追われるように、山を下り始めた途端、1羽のコンドルが物凄いスピードで近づいて来て、僕の頭上5mほどを疾風の如く飛んで行った。あれは威嚇でも襲撃でもなく、メッセージ…僕は感謝の言葉を貰った気がした。
 望遠鏡でずっと様子を見ていたロレンソ獣医は開いた口が塞がらないといった様子で、「あなたは…一体何者なんだ?」と言う。長年ここを見守ってきた彼でさえ、亡骸には出くわしたことがないと言う。
 コンドルは唯一自ら死ぬ生き物なのだそうだ。毎日大変な距離を食事のために移動しなければならない…ある日、自らの死を悟るのだという。そして翼を閉じ、呼吸数と心拍数を次第に減らしていく。最後の力を振り絞り、住処の最も高い所まで登り、そこから翼を閉じたまま自ら落ちる。これがコンドルの最期なのだ。亡骸は仲間が食べる。あまりにも衝撃的な事実だ。

photo by Hikaru Iwakawa

photo by Hikaru Iwakawa

 今の僕は、世界のどこにいても、あの場所まで飛ぶことが出来る。Sumaj Pachamama, Sumaj Pachacamac, Padre Kuntur, Abuelo Kuntur...と彼らに声を掛け、呼び起こし、彼らの声に耳を傾けることが出来る。これを「生まれ変わる」というのかもしれない。

photo by Hikaru Iwakawa

 
 

2017年6月10日土曜日

6月21日の【無伴奏ケーナ・リサイタル 〔J. S. バッハ〕】と新作アルバムに寄せて

*以下の文章はTwitterに連投したものの加筆・修正版です。
*表題の通り、2017年6月21日に東京オペラシティ内「近江楽堂」にて開催される【岩川光 無伴奏ケーナ・リサイタル 〔J. S. バッハ〕】と、新作アルバム【Johann Sebastian BACH : 3 SUITES (BWV1007​-​1009​)】に寄せて書いたものです。

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意外にも、J.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」のチェロ以外での演奏で最初に聴いたのは、清水靖晃氏のサックス版だった。それを聴いて、リコーダーを通じて後期バロックを学んでいた最中だった少年期の僕は、先ずある種の「反感」を抱いた。(勿論、今となっては清水氏のアルバムも大いに楽しんで聴くことが出来る。賛否両論はあろうが、非常に芯の有る斬新な音楽的プロポーズだと思う。)

その直後、魂の師と仰ぎ心酔していた故フランス・ブリュッヘンによるリコーダー版の存在を知り、すぐに譜面と録音を手に入れた。中学の終わりか高校1年位だったろうか。その衝撃は今もなお新鮮な感覚として、僕の中にある。今から45年前の天才の仕事である。

それからと言うもの、このブリュッヘン版を、音楽的興味は無節操に広げながらも、いつも持ち歩く教科書のように拠り所とした。1~3番までしか彼は取上げなかったが、それで十分だった。先ずはリコーダーでひと通り学んだ。この時はまだ、ケーナで演奏しよう、とは想像もしていなかった。

色々あって、大学入学の頃、ケーナ奏者として自分を定めた。バロックとモダンのリコーダーを通じて学んだ技術をケーナに注ぎ込む作業を始めた。この頃、J.S.バッハのこの作品のケーナ版を、いつか僕が作らなきゃならないんだ、という漠然とした思いを抱き始めた。

J.S.バッハ自身の直筆譜が存在しないこの作品の編曲は、いつだって、誰がやったって、様々な困難と選択を強いられる瞬間が多々ある。マグダレーナ版とケルナー版を眺めながら、一般的な出版譜の信用ならなさを痛感することもしばしばだった。

ましてや、ケーナで、自分で演奏するのだ。作曲家との対話だった。彼が生きた時代、その前からの影響、当時の環境や習慣…考えるべきことは膨大にあった。おおよそ一般的にはかけ離れたイメージを持つケーナという楽器で演奏するからこそ、あらゆるフレージングに、アーティキュレーションに、全ての音符に、これらの知識が血肉化された形で反映されていなければならないと考えた。世界初はいつだって責任重大だ!

全く関係ないように見える色々な音楽をやりながら、だったので…結局10年かかってしまった。

ようやく去る今年の5月、スタジオに入り、3つの組曲の録音を仕上げた。完成版を聴き、恥ずかしながら、僕は自分の録音を聴いて初めて涙が出た。
300年前に書かれた音楽を、今日の自分自身の真の声にするなんて、容易なことではない。この作品を取上げてきた数多の演奏家に敬意を払いながら、今こうして、この作品を自分の音楽に出来たことに、素直に喜びを覚えた。そしてJ.S.バッハの偉大さ、何よりも音楽の尊さを改めて知った。

だから今は言える。「ケーナでやる意味とか、聴く前から余計なことを問わず、とにかく聴いてくれ。ここに音楽があるから」と。

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【岩川光 無伴奏ケーナ・リサイタル 〔J. S. バッハ〕】
2017年6月21日(水)18:30開場/19:00開演
近江楽堂 
3,000円/当日3,500円
予・問✉otonomado@gmail.com



2017年6月7日水曜日

ここひと月半ほどのこと

ここひと月半ほど旅が続いた。

4月17日(正確には18日未明)から25日まではメキシコはベラクルス州の街ハラパにいた。国際ケーナ・フェスティバルに出演するためであった。
4月25日から5月16日まではアルゼンチンのブエノスアイレスにいた。Facebookに「ブエノスアイレスに行くよ」と投稿した途端、出演依頼が殺到し、ついに1日も休みがなかった。この間に新作アルバム『Johann Sebastian BACH : 3 SUITES (BWV1007​-​1009​)​』(J. S. バッハ「無伴奏チェロ組曲1~3番」のケーナ版)の録音も仕上げた。
そこから日本に戻り、諸々の雑務に追われたのち、5月25日から31日まで、ピアニスト/作曲家の伊藤志宏氏とジャパン・ツアーを行った。
6月1日に拙宅に戻り、久々に三匹の愛猫たちと戯れようとしたが、彼らはしばらくの間、どこかよそよそしかった。

旅の中で起こった全ての出来事を事細かに書くことは、ここでは許されないだろう。しかし一つ言っておかなければならない大切なことは、これらの旅は常に美しい人間の関係性で以て成り立っていた、ということである。

先ず、メキシコでのフェスティバルへの参加、それに続くアルゼンチン滞在と新作録音のために、多くの知人、友人、ファンの方々が「協賛」という形で惜しみない応援を下さった。この助けがなければ実現し得なかった。この場を借りて改めて御礼申し上げたい。

メキシコのフェスティバルでは、今日の幅広いケーナ演奏シーンを代表する世界最高峰の奏者たちが集結した。この規模のケーナ・フェスティバルは他に例がなく、出演者の質は間違いなくトップである。その中で僕は、唯一の日本人どころかアジア圏からはただ一人の出演者でありながら、ソロ部門の取りを務める栄誉を授かった。やるべきことは出来たと思う。主催者やプロデューサー、会場にいた方々からは、「このフェスティバル中、最も美しい静寂に会場が包まれた」「ケーナ演奏史上最高峰」「誰も予想だにしなかった別次元の演奏」など、身に余るお言葉をたくさん頂いた。また、来年の同フェスティバルへの招聘も即座に決定し、ペルーやコロンビアの音楽祭への招待、マスタークラスなどの依頼が相次いだ。

しかしステージを一旦降りれば、ただの人である。ここからが人間同士の付き合いというものである。ホテルでは他の出演者との酒宴が毎夜毎夜続いた。初日は10人ほどで缶ビール200本とテキーラ2本を空にした。そんな夜が4日ほど続いた。そりゃ、旅立ちの時には涙がこぼれるわけである。

ブエノスアイレスはすでに我が第二の故郷と呼ぶにふさわしい街である。20歳からの時間の約半分をこの街で過ごしている。僕が話すスペイン語は今や完全にポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)のそれである。しかし、僕が逃げるようにこの地を離れた2015年12月に起こった政権交代から、明らかに大部分の国民の実生活は大打撃を受けている。(僕はそれ以来、日本とアルゼンチンを、文字通り「行き来する」生活を送っている。)皆、物価高騰に必死に耐えている。そんな状況でも、ありがたいことに、僕のライヴには必ずお客さんがいる。出演したライヴはどれもほぼ満員御礼であった。

ブエノスアイレスでは2つの作品を録音した。
一つは例のJ. S. バッハ「無伴奏チェロ組曲1~3番」である。すでにデジタル配信は開始されていて、6月21日に近江楽堂で開催されるリサイタルでCD販売開始である。
もう一つはMauro Panzillo(テナー・サックス)、Emmanuel Rotondo(エレクトリック・ギター)、Francisco Jaime(ドラム)から成るトリオ「P∆JARO」とのアルバム。彼らは云わばエレクトリック/アンビエンタル/フリー・ジャズなどにカテゴライズされるような音楽をやっているプロジェクトだが、「自分たちが生まれた大地を、僕らも予想だにしなかった文脈で奏でる音が欲しい」とのことで、先ずはライヴに僕をゲストで呼んでくれた。1、2曲かと思いきや、ライヴ1本丸ごとだったのには驚いたが、非常に美しく鳴っていて、彼らは大満足し、即、レコーディングのオファーもくれ、このセッションと相成った。無論、録音も1、2曲なわけもなく、アルバム1枚分を2時間ほどで録った。

充実の旅から日本に戻ると、瞬く間に自分が委縮していくのが分かる。外から見ると、この国の素晴らしさも愚かしさも目立ってしまうのである。何よりも先ず、現実がのしかかってくる。正直に言ってしまえば、元気がなくなる。

が、今日まですこぶる調子がいいのは、伊藤志宏氏とのツアーのおかげである。
現状、僕が独自のプロジェクトとしてデュオをやっているピアニストは彼だけである。常々、「伊藤志宏はピアノという機械から人間の声を引き出す稀有な存在だ」と言ってきた。このツアーでも、彼の十指に撫でられるピアノは、人間の心の機微を鮮やかに歌っていた。
良いツアーの後には、聞こえ方が変わっている。耳が変わっている。考え方も少し変わっている。要するに、それ以前の自分ではなくなっている部分があるのであろう。
志宏氏と東京(関東)以外で演奏するのは、これが初めての機会だった。僕らがやっている音楽は僕らの音楽である。作曲も僕ら、演奏も僕ら。観客の方々が初めて聴くものばかりである。聴いたことのない音楽を聴くことは、演奏することより、大きなチャレンジではないかといつも思う。
だからこそ、このツアー中、幾度となくお客様の集中力と熱意、そして彼らが作り上げる静寂に感謝した。
終演後、お客様の顔がとても素敵になっていた。何かが開かれたように、目が煌めいていた。こういう時、人間は美しいと思う。

そう、人間は美しい。世界中のどこへ行っても、良い時間を持てば、そう感じる。
僕は、「音楽は世界を平和にする」とか、「音楽は国境を越える」とか、そういう類の言葉は嫌いで、そんなことは全く信じていない。僕の実感としてあるのは、「音楽は時々、人間の心を解きほぐす」ぐらいのことである。しかし、それがとても大切で尊い。

あとは勘違いしないことだな。
音楽家が偉いんじゃない。音楽が凄いんだ。

2017年4月7日金曜日

20年

ケーナを始めて20年になった。
この楽器を吹く悦びは、初めて手にした時のままの純度で、今も僕を捉え続けている。
一方で、演奏家としての僕は、益々貪欲になっている。つまり、逆説的な言い方になるが、上手くなればなるほど、下手になる、そんな気分がある。一つの問題を解決すれば、今まで見えなかった課題が見えてくる。その度に新たな要求が増える。まぁ、そういうものなのだろう。

今更ここで、この楽器との馴初めや僕自身の出自をドラマティックに語って、説得力を持たせようとは思わないが、出逢いからこれまでを少し振り返っただけでも、沢山の幸運が思い出される。

道半ば、とよく言うが、僕にはあまりその実感がない。定められたゴールなど端から存在しない。そもそも、道すらないところを手探りで彷徨っているといった様子だ。

生涯現役を公に宣言するような見苦しい真似はしたくない。やめるべき時にやめる。演奏家としての僕に責任というものがあるとしたら、その判断を任されていることぐらいであろう。

20年間ほぼ毎日、この楽器を手に取り、吹いている。
木や竹といった自然の素材で出来ているから、気候の変化も常に影響するし、激しい演奏を立て続けにこなした後などは楽器に疲れが出るものだから、1日ぐらい休ませてやる日もあるが、2日吹かないでいると僕の体調が悪くなる。身体に悪い気でも溜まっているように優れなくなる。面白いものである。

9歳でこの楽器を初めて手にした。
色々あって、家で練習出来るタイミングは限られていたので、よく見計らって音を出さねばならなかった。それでも毎日触った。夜中など、音を出せない時は、歌口のところに耳を持っていき、指孔を開けたり閉じたりしながら、筒の音を聴くのが好きだった。異世界へ誘うような、何とも豊かで美しい音がする。この楽器はこういう音で鳴りたがっているんだ、と教えられているような感じがする。

まだまだである。
しかしそれでも、僕のケーナの音はすでに、僕の声より僕の声に近い。





2017年2月25日土曜日

解釈

Michael EndeがJoseph Beuysとの対話(『芸術と政治をめぐる対話』)の中で、こんなことを言っている。
「なにかある作品を書きはじめると、最後がどうなるのか、私にはまるでわからない。私としては、そのときそのときに書きながら、決定するだけなのです。力の及ぶかぎり適切に、可能なかぎり正直に、決定しようとするだけなのです。まちがっていても、まちがっていなくても、すべてをひっくるめて。」

解釈することにはいつも、「"こちら"側へ引っ張ってくる」という恣意性が伴う。解釈には常に、解釈する側の恣意性が含まれ、また、そうした恣意性が含まれないならば、それは解釈ではない。客観的であろうとする意図には主体がある。

常々、僕は、先ず、生き方として音楽家を選んでいて、音楽家としては演奏家というよりむしろ作曲家である、と言っている。作曲家としての僕が要求することを、演奏家としての僕は、最低でも及第点程度には実現できなくてはならない、というだけのことである。また作曲家としての僕は、僕自身の生を通して見た世界を、音に落とし込むというか、音として描くような感覚をいつも持っている。この世界の大部分が言葉にならない。そんな時、音の方が、僕にとってはよっぽど役に立つ。だから、僕が書いた曲を演奏する時の僕は、僕が生きる世界そのものを音にすることを目指す、そういう感覚がある。そうして最終的に、何も創り出していない、という思いに至る。だから作り続けるのかもしれない。

そうしたわけで、先に引いたEndeの言葉には心底共感する。僕の音楽作りも正しく同様である。
自分自身が生きる世界のありのままを出発点に、何かを表現しようと試みる時、世界は定義も解釈も拒み、捉えようのない、測り知れない存在として立ち現れる。そこに飛び込むのである。まずはその一歩目の踏み出しが大きな挑戦である。あるいは突発的な、偶然のような。あとはずるずると引きずり込まれるか、二歩目、三歩目と恐る恐る闇の中を行くか…行きつく先など見えるはずがない。集中力の途切れか何かでもって、とりあえずの諦めが付く程度には体裁を整え(ここは職人技!)、筆を置く。仕方がないのである。生そのものが果てしない音楽であるかもしれないのに!僕の場合はそうなのである。

作者に彼の作品の解釈を求めることは、拷問に等しい。言葉なら要約も職人的技能の一つであろうが、もともと言葉にならぬものを言葉にせよという時点で、無理がある。また、音楽なり美術なり、言葉にならぬものを表現しているはずなのに、ぺらぺらと口から出任せで解説する人や、そんな言葉がないと作品を他人に提示することすらできない作家が少なからずいることも、僕は好ましくないと思っている。少なくとも僕はしたくない。

解釈はご勝手に、である。
僕の音楽は、聴いてくれさえすればそれでいい。

2017年2月18日土曜日

行動する知識人

行動する思想家や知識人が好きだ。
僕は音楽家だから、僕自身、音楽を作ることは僕なりの「行動」のスタイルだと信じている。

年来、座右の銘を問われれば、迷わず、大森荘蔵の『哲学的知見の性格』の結びの言葉を挙げている。
「元来、生きることは、知ることの様式ではあるまいか。」
新しい手帳を買うと、見返しにこの言葉を書くのが、年に一度の習慣となっている。
大森はまた『ことだま論』の中でも、「生きる、とは、知覚的に生きる、ことなのである」と書いているから、この考えは、哲学者としての彼の生涯の大部分に通底してあったのだろうと思う。

この言葉に出逢うまで、生は死を以って証明される、と考えていた。
常に現在進行の生の営みの中で、その在り様そのものを、それが生であることを、いかに証明し得るだろうか。死を以ってして、なるほど生きていたのだ、と想起され、語られるのではないか。

いや、生は実感として、確かにある。そしてそれは、あらゆる「知ること」に強く結びついている。それどころか、知ることによって実感される、と言える。

Mohandas Karamchand Gandhiは
「Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.(明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるかのように学べ。)」
と言った。

ここで誤ってはいけない。死は知ることの目的ではない。死は生の証明にはなり得るかもしれないが、知の証明にはなりようがない。死は万人に等しく訪れる出来事でしかなく、死そのものがどんなものかは、生のうちにある我々は経験としては一切語り得ない。生は生によって、つまり知ること、学ぶことによって、私自身には証明され、行動(表現)によって我が生は他者と共有される。

ゆえに、虚無主義はとても知的な態度とは言えず、無意味であり、時に有害ですらある。殺戮を、独裁を、あらゆる不誠実と不正義を許してしまうのも、虚無主義ではないか。三木清も「もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立ち直らねばならない」と書き、当時のインテリジェンスのあり方を危惧しているが、この状況は今日もなお続いてはいないか。

だから僕は、虚無主義的な態度に至る話題や会話には、何ら興味を持たない。学ばず生きること、知ることを放棄した生き方を、生きていると、どうして見なし得ようか。

学び続ける人の表現には生の証明がある。このような人を僕は知識人と呼び、その生き様をアルテ(芸術・業)として受け止めたい。
僕は、行動する知識人が好きなのだ。

2017年2月9日木曜日

新たなプロジェクト

今月23日から31日までスペインに行っていた。
今回の滞在の第一の目的は、新たに始動するEsteban Valdiviaとのプロジェクトのリハーサルであった。
更に、この短い期間中、3日間はカンタブリアの海を眺めるアストゥリアスに滞在していた。これはこのプロジェクトの、いわばデビュー公演を、地元のミュージシャンであるPablo Canalísを加えた3人編成で行うためであった。この公演は結果として大成功で、見込み100名、定員120名のところ、170名以上の観客が集まった、と主催者は喜んでいた。そんなことより僕は、まず会場(Centro de Cultura Instituto Antiguo de Gijón)の音響の素晴らしさを大いに愉しんだ。あのような会場に日本で巡り合うのは容易ではない。空間も含めて楽器なのだ、ということを痛感させられる。

ところで、このEsteban Valdiviaという男は本当に面白い。
彼はミュージシャンである。元々はプログレッシブ・ロックのドラマーであったが、今は専ら「パーカッショニストな笛吹き」(自称)であり、「ドラムは最悪な楽器だ」と言って憚らない。
また彼は考古学者であり、南米、とりわけエクアドルの海岸地域をフィールドとするプレイスパニカ時代の音楽遺跡研究者であり、人類学者でもある。そしてまた、こうした考古学者としての仕事の中で接した楽器のレプリカ製作の第一人者でもあるから、楽器製作家であり、陶芸家でもある。
その上、自分で拵えた物をどこでも売りさばくことに極めて長けた才を持っている商人でもある。(事実、数年前は露天商をやったりもしていた。)
彼は今、マドリッドに暮らし、大学の博士課程に籍を置いているが、エクアドルに家を建てている最中で、10月にはそちらに引っ越すことにしているそうだ。
そして彼はネイを吹くスーフィーである。
彼の奥様はデザイナーであり、考古学者でもあって、こちらも同様のフィールドの遺跡研究に従事し、デザインと言語学の面から紐解こうとしている。Estebanの商売には彼女のデザインが必要不可欠となっている。

という男とこれからプロジェクトを始める。
先ずは11、12月にブラジル、アルゼンチン、チリ、エクアドル、グアテマラを跨ぐツアーを敢行しようと計画中である。

僕らの音楽作りは、僕にとってすこぶる刺激的で、面白い。新たな音楽的地平を拓く道標となるだけでなく、音楽観そのものの転換すらもたらす可能性を持つ経験だ、とどこかに書いたが、これもあながち大げさな表現ではない。

先ず、たくさんの楽器をテーブルに並べる。
3,000年以上前に用いられた「Vasija Silbadora(水差しホイッスル)」のレプリカから、マヤのトリプル・フルート、アマゾンのシャーマンが用いていた人骨のケーナ、ペリカンの骨の笛、コンドルの羽軸など南米大陸を故郷とする楽器たちをはじめ、タイのケーンやトルコのネイなんかも並ぶ。僕がいつも使っているケーナをこれらの楽器と一緒に置くと、まるで西洋の楽器に見えるから不思議である。
そうして並べた楽器を一つ一つ手に取り、演奏してみる。これらの中には、すでに元々の奏法が分からなくなってしまったものも少なくない。そういう時はEsteban曰く「楽器が教えてくれるのを待つ」しかない。そもそも楽器というのは、楽器自身が鳴りたいように鳴らしてくれる人の手元に辿り着くのを、じっと待ち侘びているようなところがある。
そうしてやがて静寂を破って音が鳴り始める。小さなアパートのキッチンに森が立ち現れたりするから面白い。
楽譜など用いようがない。和音を奏でる楽器(マヤのトリプル/ダブル・フルートなど)は、その時代に生きた人々の音楽、とりわけ和声感覚を我々に教えてくれる。西洋平均律にすっかり飼い慣らされた今日の我々にとっては新たな音宇宙である。「不協和音」などという表現は、この意味で、音楽的知見の狭さを露呈するに過ぎない。
演奏し、録音する。それを確認し、練り上げて、構築していく。作曲家としての僕は、「どこに辿り着くか予想だにできない新鮮な感じを保ちたい」などと思いつきを言っては、緩やかに方向性を示してみる。そしてまた、練り上げる。
徐々に楽器の演奏は、「遊び」という元来の姿を取り戻す。楽器に誘われ、時空を旅するような感覚がある。

リハーサルの様子から、少し僕らの音楽作りの方法を説明すると、ざっとこんな感じである。

音楽は言葉にならない。言葉にならないから音楽なのである。僕らの音楽もまた、体験してもらう他ない。
いつか、このプロジェクトでの公演が日本でも実現出来たら、と願っている。

2017年1月14日土曜日

基礎

僕が演奏するケーナは、「メソッドがない楽器」と言われる。
かなり初歩的な演奏技術から、遍く広く流布した、ないしは共通の、確立された奏法がないため、そう言われるのも致し方ないのかもしれない。また、このような状況は、特定の民俗ないし社会の文化的背景が色濃く反映されている諸楽器についても、同様に見受けられるだろう。

(注:今日の音楽的状況を鑑みれば、西洋の十二平均律音楽の呪縛から一切逃れられている音楽に巡り合うことの方が困難である。非常に多くの国々や地域で、あらゆる楽器が、その音色に還元され、楽器それ自体として聴かれる時、その奏法の基礎が、ある程度、十二平均律に置かれるのは免れない状況にある、と言わざるを得ない。以後、これを前提として話を進める。)

しかし、メソッドそれ自体が、その楽器の演奏の基礎なのではない。また、多くの教本が世に出されている楽器についても、いずれの教本もその楽器の演奏について万能な「マニュアル」にはなり得ない。楽器演奏におけるあらゆる問題は、常に創意工夫を持って対処されなければならない。

前述のような「メソッドがない楽器」は、各々の演奏における問題や課題に則って、奏者一人ひとりがメソッドを作り上げるところから任されているのだ、という意識を持つより他ない。その時、あらゆる楽器の、今日までに試されてきた演奏法が参考になり得る。

例えば、僕のケーナ奏法はその基礎を、主にバロックとモダンのリコーダー奏法に大きく依拠しているが、当然のように横吹きのフルートやクラリネットの奏法も参考にし、必要に応じて取り入れている。また、細かな、しかし非常に重要な手や手首、腕の用い方については、ヴィオラ・ダ・ガンバの奏法まで応用されているし、身体の在り方は武道から多くのヒントを得ている。

少し話は逸れるが、先日リハーサルの最中に、「本当に装飾が少ないね」と言われ、自分の演奏と練習法について気付かされる点があったので記しておこう。
リハーサルはまず、音楽の構造を演奏する全員で確認する場として必要なわけだから、基本的に、装飾は必要最低限、ないしは一切付さないようにしている。日頃の基礎練習も当然、同様である。また、僕の演奏スタイルは、他のケーナ奏者と比較しても、(余計な)装飾が少ないかもしれない。これは僕の、音(色)そのものへのこだわりのためであるが、こうした趣味的な部分は、常に変化し続ける。
しかし、楽器演奏の修練において、特に(ケーナのように)西洋十二平均律の演奏を容易にするように設計されていない楽器の練習においては、これは非常に重要な習慣ではないかと思う。(ヴィブラートや経過音なども含む、広い意味での)装飾を前提とした練習は、奏者にしばしば「悪い癖」を植え付ける。よって、ケーナについて言えば、非常に多くの(ないし、ほとんどの)奏者が、表面的には高度に見えて、しかし「正確な音程が取れない」という状況に陥っている。
装飾は(文化的背景はありつつ)あくまでも奏者個人の嗜好、それ故にその人の音楽そのものが問われる部分であるから、優れた演奏家たちに(正しく「真似をする」ことによって)学ぶところは大きい。しかし、「それしかできない」という状況は好ましくない。

話を戻しつつ、本文を結ぼう。
優れた基礎は、幅広い応用力(応用可能性)を持つ。基礎の良し悪しはそこで量られると言っても過言ではない。
また、楽器の演奏における基礎は、あくまでも奏者個人にとっての基礎である。つまり、その奏者にとって十分に血肉化され、常にその表現を助けてくれるものである限り、いくら幅広くても、どれほど深くとも、一向に構わないのである。

日々、探究は尽きない。

2017年1月6日金曜日

祖母の訃報

昨夜、新年の初仕事(とある舞台のための音楽のレコーディング)を終え帰宅すると、長年病床にあり、先月から危篤状態が続いた祖母が、亡くなったと報せを受けた。
今、僕の胸中に残る後悔はまず、「元気なうちに、あのたまらなく美味いけの汁と人参の子和えの作り方を教わっておけばよかった」ということである。しかしもう遅い。記憶を噛みしめるか、記憶を頼りに再現してみる他ない。

その祖母の生涯の伴侶である祖父は、齢85にして雪道も自ら車を走らせるほど元気だが、祖母の存在が生き甲斐であったことは間違いなく、その落ち込みは想像に難くない。
祖母が倒れてから、祖父は家事を覚えた。それまでは、家の中のことは一切していなかったと思う。少なくとも僕は見たことがなかった。
彼らの趣味は夫婦そろっての旅行だった。暇を見つけては、あちこちへ出かけていた。祖父は根っからのどけちだが、旅行には毎年予算を設けていたという。
祖母は倒れる少し前に、どうしてもある所へ旅行に行きたがったという。どけちな祖父は財布のひもを締め、渋ったが、祖母は自分の保険を解約して強行した。それが最後の夫婦旅になった。

祖父はその後、僕と一緒に酒を呑む度、同じようなことを繰り返し言うようになった。
つまりそれは、「元気なうちに、もっと楽しませてやればよかった。お金を使ってあげればよかった」ということだった。

その願いも、もう叶わない。

祖母の死について、今はまだ実感が湧かない。まだ何も見ていないのだから当然である。
しかし、もう長いこと覚悟が出来ていたから、報せに際して特段大きな驚きもなかった。
それは恐らく、先月、心臓が止まった状態で病院に緊急搬送された時に、「祖母危篤」の報を受け、翌日すぐに会いに行ったからだと思う。人工心肺装置によって辛うじて命ある祖母は、その生の証明である脳と、唯一持つ意思伝達の道具である瞼でもって、僕の声に必死に反応し、涙していた。それが最後に交わした「言葉」であった。

2016年12月27日火曜日

おおきな木

子どもの頃から大好きで、幾度となく繰り返し読んだ絵本がある。
Shel Silversteinの『おおきな木』(原題:The Giving Tree)がそれである。今は村上春樹による翻訳で出ているが、僕が持っていたのは本田錦一郎によるもので、こちらの方が優れていると思う。

僕は、11歳で母方の祖母を失ってから、不思議なことに「死にたい」と思うことはなかったけれども、時々「もうこれ以上生きていたくない」と思うことがあった。そんな時は必ずと言っていいほど、この絵本を開いた。自ずと涙が零れ落ち、裏表紙を閉じた後、ほんの少しだけ世界が違って見えた。

我々はもしかしたら、奪われることにも、奪うことにも、慣れっこになってしまっているかもしれない。

僕は、人は思想し、思想が社会を構築し、その社会の中でまた新たな思想が萌芽し、広まり、より良い生の営みのために働くのだ、と信じたい。無論、ここで言う社会とは、複数の人々の有機的な繋がりによる総体のことであり、文化的にしろ、経済的にしろ、あらゆる事象がここに包含されている。

しかし実際には、今日、思想は無力化されているように見える。何故か。簡潔に言えば、経済システムが社会を構築する基盤になってしまっているからである。資本主義は国家を、そして社会全体を、搾取の構造にした。無から有を生み出す幻想である「利子」の発明のおかげで、搾取の構造から抜け出せないままに死に至る我々は、裏で繰り返される殺戮と破壊にすら盲目である。
我々はそうした構造の中で思想し、表現することを強いられている。ほとんどの、より良い未来への道標となり得る鮮烈な思想が、そしてその表現が、人々に行きわたり、その役目を果たす前に、黙殺される。

話をあの絵本に戻そう。
テーマを見出すとすれば、それは「与える(give)」であろう。

木は少年に「ただ」与え続ける。一切の見返りを求めず、持てるものを全て与える。少年が舟を拵えるために、木は自分自身の肉体のほぼ全てすら与えてしまう。そこで、こう綴られる。
"And tree was happy... but not really."
これを村上は「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」と訳し、本田は「きは それで うれしかった・・・だけど それは ほんとかな?」とした。本田の方は名訳だと思う。

搾取の構造が家庭や親子の間にまで浸食してしまった時、その子は生きる術を奪われた感覚に苛まれ、この世界の終わりを願うだろう。
見返りを求める愛など、愛ではないのに、そんなことすら知らずに親になってしまう人々がいる。僕の親もそうだったが、親がすべての手本であるわけがないし、家族が世界の全てではない。

この絵本は、僕に、与えるということの美しさを教えてくれた。それと同時に、奪う側の傲慢さがいかに恥ずべきものかも。

人類の経済の原初形態は、「交換」でも「贈与」でもなく、「あげたり、もらったり」ではないか。学生時代にこのテーマについて考える契機を与えられて以来、その時に受けた講義の影響もあって、今でもこう信じている。与えられる時に与えらえる物を与え、貰えるならばありがたく貰う。負債の感情なしに、また、見返りの要求もなしに。ここには所有の概念がほとんどない、または、極めて流動的である。「私のもの」は何もない、私が創り出したものでもない、全て与えらえれたものである、という感覚。その時、自然の在り方は愛そのものであり、「あげたり、もらったり」はその共有の作法である。

しかし、木のしあわせだって、願わなくては。

2016年12月22日木曜日

「簡単な音楽」?

「簡単な音楽」「易しい曲」などといった言葉が、演奏家の間で交わされるのを、しばしば耳にする。何の考えもなしに、特に注意も払わず使っているのだろうけれども、よく考えてみれば疑問が残る。果たして、「簡単な」音楽や曲などというものが、あるのだろうか、と。

Dino Saluzziはよく、こんなことを言う。
「簡単なことなどない。難しいことというのもない。シンプルなことと複雑なことがあるだけだ。」
そして、続けてこんなことも言う。
「良い音楽、悪い音楽、というのもない。良い演奏と悪い演奏があるだけだ。」

音楽は、注意力の、ないしは、意識の産物だ、と言える。
音が音楽になる時、そこには、「聞こえる」という状態から踏み出し、「(目的意識や意志を伴った)聴く」という行為を自発的にする聴衆の出現が不可欠である。
音楽の要素は音と静寂であり、それらを組み合わせることが作曲である、とJohn Cageは言ったが、その音と静寂の組合せを音楽として聴く意志を持った聴衆の存在が必要であるから、音楽はその在り方からして、他者依存的である。

先日twitterにこんなことを書いた。
「楽器の練習は常にppから始めるとよい。用意された静寂から、音が生じる瞬間を、しっかりと捉えるためにも。fやffはあくまでも対比である。ppの意志は、演奏者側だけのものではない。むしろ、しばしば聴き手にこそ高まる。また、優れた演奏家は優れた聴き手でもある。小ささは弱さではない。」
楽器の演奏において、第一の聴衆は演奏者自身である。
また、演奏というと、すぐ既存の曲の演奏のことを思い浮かべてしまうので、忘れられがちな点がある。楽器の演奏とは先ず、音を生じさせることなのである。(無論、自分自身の身体から生じているとは言い難い。その感覚は、演奏上の意識や姿勢としては大切かもしれないけれども、実際には楽器を介して、である。)
先ず、静寂を用意する。音を待つ感覚である。この時点で「聴く」ことが既に始まっている。始まっていなければ、音は出してはいけない。
高まった聴取の意識の中で、音を出す。(ここで演奏上の助言をするとすれば、どんな弱音でも、楽器が鳴っていなければならない。)意識は、すぐさまその音の出現を感受する。立ち現れるピアニッシモに対して耳は研ぎ澄まされていく。

たとえ一音でも、この意識の集中を実現するのは、容易なことではない。私たちはしばしば、複雑で技巧的な音の組合せに興味を引かれがちだが、本当のところ、良い演奏というのは、この極限にまで高められた意識が、奏でられる一音一音に行き届いているもののことではないだろうか。一音が音楽になり、ハ長調の音階練習が美しいコンポジションとして響く可能性が、ここに秘められている。

「簡単な音楽」などない。あるのは、そんなことを言ってしまう演奏家の傲りと自惚れだけである。

2016年12月16日金曜日

考える

僕は日常的に3つの言語で情報を得ている。日本語、スペイン語、そして英語である。
また、メールやチャットなどを用いた日々のやり取りの8割以上が、今はスペイン語になっている。
必要に迫られて、である。別段、得意なのではないし、専門教育を受けたのでもない。聞いたら喋らずにはいられないし、読めば書かずにはいられない、それだけである。

ジャーナリズムは死んだ、と言う人がいる。マスメディアのジャーナリズムはそうかもしれない。資本が真実を封殺し、言論を捻じ曲げ、報道を広告にしてしまっていては、そうと認めざるを得ない。
僕は子ども時代から、テレビをあまり観ない。一人暮らしを始めて10年近く経ったが、テレビを持ったことがない。たまに中華料理店なんかで観ると、その内容の無さに辟易し、操られ方にぞっとする。新聞もまた然り。死んだと言われても仕方ない。

しかし、である。
インターネットの普及、殊にSNSの浸透による効果の一つは、本来は通信であったものが報道の役割を担うことにある。その発信は容易に一人で出来て、その内容は圧倒的にリアルである。
アレッポの惨状を、私たちは今や、カメラとマイクを携えたジャーナリストを通じてではなく、爆撃されている現場にいる一般市民が発信するスマートフォンの映像で知るのである。今この時起こっている現実が、「これが最後のメッセージになると思う」という生きた言葉によって突き付けられるのである。
もはやこれは情報ではないかもしれない、とすら思える。
2001年9月11日、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでいく映像を、我々はあの時、瞬時に情報として読み解くことが出来ただろうか。現実であることすら疑ったのではないか。当然である。2011年3月11日、津波に飲み込まれていく街の映像を、我々はすぐに現実として受け止められただろうか。あの映像を、現場にいない人たちは、情報的に理解する必要があったのではないか。リアリティは希薄となり、「地震」「津波」…と言語化され、理解され、記憶され、やがて忘却された。

我々、日本で教育を受けた者は往々にして、知識を問われることには慣れっこだが、考え、意見を問われることに対しては、随分と不甲斐ない。
しかし、「考えること」を伴わない「知ること」は、今や徐々に必要とされなくなってきているのではないか。情報は氾濫している。知っていることに、かつてほどの価値はない。問われているのは、あなたの知識ではなく、考えである。知識は知的に考えることを助け、考えの及ぶ世界を広げ、考える態度を寛容にするのに役立つ、いわば道具である。あなたの考えこそが、あなただけに求め得るものである。そして、あなたの考えはあなたの行動を動機づける。「アームチェアの人類学者」が、なぜ常に、実践者としてフィールドに出る人類学者による批判の的であったのかを思い出すとよい。

情報の手前、現実により近いものが、日々、世界のあらゆるところから届けられる。時に、目を覆いたくなるものも含まれる。目を覆うのも自由である。じっと見つめるのも自由である。重要なのは、その時あなたは何を感じ、そして、考えたかである。考えるのである。たとえ、捉えどころがなくとも。そうして、今、何をすべきかが少しずつ見えてくるはずである。

2016年12月10日土曜日

ふと思う

「これらの機械を全て外せば、死ぬということだ。自力で生きているのは、脳だけだ。」
死を眼前に控えた祖母を前に、僕は、手話で父にこう伝えた。こんな言葉を吐いたのは、手話に限らず、日本語でもスペイン語でも英語でも、未だかつてなかったことで、自分で自分の言葉に少々驚いたが、そういうものなのかもしれない。
祖父と3人、我が家三代の男だけで、しばらく祖母に話しかけたり、じっと眺めたりしていた。最初の脳卒中から約10年が経っている。祖母はその間、度重なる再発や併発症による病状悪化で、病院や施設を転々としてきた。
今も危篤状態は続いているが、不思議なもので、こちらは一種の覚悟というか、これこそ生の営みなのだという諦めというか、そういう感情を得られて、落ち着いている。死は、誰にでも等しく訪れる。

郷里に行くと、時折、胸が苦しくなる。自分では赦しているつもりでも、記憶は甦ってくる。
特に父親の存在を見るにつけ、母親の存在を思い出すにつけ。

僕は音楽を聴いたり、楽器を演奏したりすると、殴られるような家庭で育った。
音楽についてだけではないが、とりわけ聾者である父親が理解し得ない音楽については、過敏な反応があった記憶がある。家庭の中には常に暴力があった。それが日常であった。
また、特に母親は、一家を巻き込むまでに、とある新興宗教にのめり込んでいた。もはや、狂っていた、と言っていいほどだったと思う。僕が「信じない」と言った後は、母親によって、一家に降り注ぐ数々の災厄の原因は僕の存在だとされた。「死ね」「殺す」の類の台詞を彼女の口から何度言われたか知らない。愚かなことだと思う。

僕は母方の祖母の死を機に、常に家から逃亡したいと思うようになった。おかげで独り立ちの術も早々に覚えた。12歳から人前で笛を吹いて稼ぐようになったのも、こうした理由があったからである。

ついに、当然のことながら、両親どころか、家族・親戚の誰一人にも、僕の音楽家としての生き方、僕の音楽を理解し応援してくれる人は、現れなかった。

両親は離婚し、それぞれに新たな伴侶を得て、新たな生活を送っている。
一家離散、というよりは僕が自ら断絶していた時期が続いたが、祖父が送ってきた一通の手紙を契機に、僕は郷里に時折戻ったり、連絡を取ったりするようになり、今日に至る。祖父は手話が全く出来ないので、父とのコミュニケ―ションの繋ぎ役としても、僕は都合の良い存在なのかもしれないが。まぁ、何でもよい。

先日、6、7年ぶりに自転車を手に入れた。
初めて乗り方を覚えた時から、両足を地に着けず、風を切って移動するのが、僕には自由な根無し草を想わせて、爽快なのだ。10代の頃は日に150kmでもペダルをこいで、あちこち出かけた。
いつでも、どこへでも行ける、そう思わせてくれる。

「移動」は、「そこにある」と「そこにない」を繰り返す。その意味で、それぞれの瞬間は、死に近く、また、音に近い。などということを、ふと思う。

今日のような晴天は、僕を、ここではないどこかへ誘う。





2016年12月6日火曜日

永遠の感覚

昨夕、Giuseppe Tornatoreの新作を観た。
ともすれば回りくどく語られ、核心を突かれにくいが、しかし生きる上で本当に大切なことを、誰にでも理解できる表現でもって伝えようと試みる秀作が多い監督なだけに、今回も流石の美しさであった。(ちなみに音楽はEnnio Morricone、恐らく世界一忙しい88歳の一人であろう巨匠。)

テーマは「死と永遠」といったところだろうか。

終盤の台詞にあった、「人は"ある過ち"を犯すから永遠に生きられなくなる」という問いかけが、(作中では登場人物の口から彼自身の答えは与えられていたが、それとは関係なく)劇場を出た後も僕の中では響いていた。

「自分が今生きているという感覚の中に、欠片として、永遠の感覚がある」と鶴見俊輔は言った。
僕が敬愛する哲学者・大森荘蔵は、「現在只今」を考え続けた。過去もなく、未来もなく、今、直に立ち現れる、と。

鶴見の言う通り、永遠は「感覚」である。その感覚でもって見つめ、想起するのは「今」である。今が永遠にあるという感覚であり、今こそが永遠であるという感覚である。この意味で「欠片」ではない。命ある「瞬間」というよりはむしろ、命の「在り方」そのものである。大森の言うように、「知る」ことを「生きる」ことの様式と捉える時に立ち現れる感覚こそ、その想起の出発点としては、永遠に近い、あるいは、そのものである。

無から生じ、無に帰る。
命は音に似ている。
死が生を以て証明されるのではない。死を以って生が明らかにされるのである。
三木清は、虚無こそ人間の条件であり、生命とは虚無を掻き集める力だ、と言った。

あの"ある過ち"とは、今この時を我が全生命を以って尊んで生きることが出来ないこと、ではないか。それによってのみ、永遠の感覚は立ち現れるのだから。






2016年12月4日日曜日

ありのまま

産まれたての自分を想像する。
母胎から出て、産声を上げ、呼吸を始めた時から、世界は瞬く間にその感受性の対象となる。世界は、概念からも言語からも、つまりはあらゆる名付けから解き放たれ、ただ立ち現れる。
ここは、いわゆる「言語論的転回」の想像が及ばなかった、それ故に彼らの嘘が容易に暴かれる次元である。
そう、世界は「ただ、ある」。

言葉は元来「虚偽的な道具」である。「ただ、ある」世界を切り取り、その切り取られた断片に名を与え、恣意的に仲間分けをし、抽象度を上げて、概念として思考上の操作し易くするための道具である。そうしなければ他者との意思伝達は捗らないが、「私」がこの世界においてただ個であり、同時にこの世界に境目なく組み込まれた存在である時、言葉は、より正確に言えば、すでに獲得され共有された言葉は、世界を感受し理解する道具としては、あまりに頼りない。「ただ、ある」世界の、ありのままを描き得ないもどかしさは、言葉から解き放たれた、より直接的な、ありのままの世界を「私」が感受したありのままの記憶によって、解消されるだろう。

だから言葉は虚栄の役に立ちやすいのかもしれない。
三木清の『人生論ノート』の中の「虚栄について」には興味深い指摘が並ぶ。
「虚栄は人間的自然における最も普遍的な且つ最も固有な性質である。虚栄は人間の存在そのものである。」「人生はフィクショナルなものとして元来ただ可能的なものである。その現実性は我々の生活そのものによって初めて証明されねばならぬ。」「人生の知恵はすべて虚無に至らなければならぬ。」「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。」「虚栄は最も多くの場合消費と結び附いている。」と断じ、終いには「しかし自己の生活について真の芸術家であるということは、人間の立場において虚栄を駆逐するための最高のものである。」と言う。

例えば音楽が、三木の言うように「虚栄を駆逐するための」ものであるためには、先ず言語性から離れる必要がある。巷によく飛び交う「音楽はユニヴァーサルな言語」などといった類の謳い文句は、芸術のこの重要な役割を全く理解していないと言わざるを得ない。まぁ、所詮、商業広告のキャッチ・コピーである。芸術表現はその出発地点、衝動の時点で、非常にパーソナルであり、そうでなくてはならない。創作活動には孤独がつきものであると言われる所以は、ここにもある。正に己の感受性によって直に世界に触れ、共有を前提としない、他者への伝播の可能性も放棄した、言語化・概念化手前の、溢れるがままの手探りの表現にこそ、可能性がある。

そして、その創作物が他者と共有された時、それを享受する時の我々も、ただありのままを感受し、「語り得ぬもの」の言語化ではないアプローチ(引き寄せの方法)を模索し、記憶することで、その表現に応えなければいけない。少なくとも、そして、あくまでも、個の次元では。

ありのまま、「ただ、ある」世界そのものに近づく手段を、幸いにも、まだ我々は失っていない、と信じている。





2016年12月2日金曜日

音は、今、鳴る

僕は、人類史において、作曲をしない演奏家が「音楽家」として生き残り得るかどうか、まだ疑問の余地がある、と考えている。少なくとも録音技術の誕生以前には、そうした演奏家たちはその音楽を記録として遺す手段も、情報として伝播させる方法も持たず、歴史上、(演奏を聴いた誰かが言葉によって形容し、その名を書き残してくれた例はあったとしても)無名化されたのではないか。

しかし、かつて音楽は常に即時的、同時的であり、共時的であった。今日でも、演奏を止めない音楽家の間には、この音楽の特性への信奉は根強い。かく言う僕もその一人である。
Dino Saluzziは、「音楽は"tiempo real"(=real time)の芸術である」と言った。

演奏家に音楽家としての創造性を認め得るのは、美しい音を生み出す時である。美しい音は、それ自体がすでに美しい音楽であるがゆえに、美しい音楽と同様に、またはそれ以上に、生み出すのが困難なものである。
しかし、この「美しさ」は、奏でる者だけに依るものではない。楽器の状態、空間、時間、そしてそれら全ての共有者が関わる。ゆえに音楽を「聴く」という行為は、常に能動的で参加的なのだ。

音は、生じては消える。
録音技術が存在しない世界では、それは、「今起こり」「今味わう」ものであった。
その意味で音は、味や匂いに近く、音の記憶は暗黙知の次元にある。

僕自身は、音楽家として、歴史に残ることには意義を見出さない。死んでからありがたがられても仕方ない、というのが正直なところである。
それよりも、我が命の有限性を拠り所としながら、生の、記録にも情報にもならない記憶として、誰かと共にあることの方が、嬉しく、また、心地よい。

僕は、音楽家ではなく、音楽に、もっと言えば音になりたい。

2016年11月28日月曜日

農と音

一昨日、昨日と、1泊2日の弾丸日程で秋田県の男鹿と大仙に演奏旅行に出かけていた。
「寺」と「食堂」が舞台だったが、演奏会もさることながら、そこに集う人々、その生の営み、それを支える風土そのものが、ありのままで美しく、強く心打たれた。良い旅だった。

20歳でボリビアのラ・パスに単身渡航したのを皮切りに、その後の人生の半分以上の時間を日本を遠く離れ、南米大陸(主にアルゼンチンのブエノスアイレス)で暮らしてきたが、11歳の秋口に起こったある出来事によって心にすっぽりと開いた穴は、以来、世界のどこにいようとも、僕に「ホーム」を喪失した感覚を抱かせ続けてきた。

しかし昨日、「樫食堂」で出逢った風景は、僕の人生の「原風景」を思い出させてくれた。そう、しっかりしまってあったのだ。
心を温めてくれる寒さがあり、どんな音よりも音楽的な深い静寂がある。地平線はあるがままの自分を受け入れてくれ、風は愛してくれる。

その食堂を営む一家は、自らの手で育んだ野菜を、自らの手で調理し、携帯電話の電波も届かぬ、威風堂々とした大地に、ぽつりと佇む彼らの家に、彼らの料理を心から求めて辿り着いた人だけに、ただ差し出す、ということをしている。
かつてはそれが当たり前だった。
命には、いただき方があった。調理にも食事にも、ある種の儀礼性が伴った。

僕は根っからの祖母さんっこだった。母方の祖母が誰よりも好きだった。
彼女は家の近くに小さな畑と田んぼを持っていた。田は、手で植え、手で刈る、で済む程度の、畑は日々の食事の足しになる程度の、それぐらいの規模だったと記憶する。よく、色々と手伝わされたので、今でも一通りのやり方を覚えている。
この畑で採れたトマトが世界で一番美味かった。じゃがいもも、とうもろこしも、土の味がして美味かった。すいかは畑で休憩の時、祖母が膝で割ってくれたのを、むしゃむしゃと食べた。甘かった。
見渡せば辺り一面が津軽平野に営まれた田畑で、水が流れ、お山があった。

思い出したのは、この風景である。

常々、農作のように音楽作りをしたい、と思っている。
特に東京に暮らす周囲の「売れっ子」ミュージシャンを見ていると、朝早く出かけ、午前中に録音仕事、昼にリハーサル、夕方には別件のリハーサル、夜はコンサートの本番、という日々を、ほぼ年中、毎日のように送っている。ツア―に出かければ、移動中すら、連絡業務や事務作業に追われている。
凄いもんだ、こうしなければ生活が成り立たないんだな、と感心する一方、彼らはいつ考え、修練し、創作しているのだろうか、という疑問が湧く。彼らは自分という大地を耕すことが出来ているのだろうか、と心配になる。
音楽を作るために、音楽よりも大切なことがある。人の、人としての営みである。その一部が音楽だ、というだけであって、決して全てではない。「音楽」という概念すら、実は不要なのだ、ということは、世界中の多くの「未開」「原始的」とされる人たちが証明している。
豊かな土地から、滋味深く、美味い野菜が採れるのである。人が豊かでなくて、どうして真に豊かな音が響こう。
自分を耕す時間は、演奏よりも圧倒的に長くなければならない。そして次なる収穫のために、命の繋がりのために、耕し続けなければいけない。丁寧に、育て続けなければいけない。
それを他人に提供するならば、それぐらい心しておくべきだろう。「口に入れるものとは違う」とは単なる言い訳である。筋も通っていない。音楽だって耳に入り、頭に入り、留まる。

樫食堂のスープを一口すすった瞬間に、このことの大切さを改めて確信した。
この味に応えられる音楽ができただろうか、と振り返った。






2016年11月25日金曜日

資本主義、広告と芸術

今日我々が暮らす世界を席巻する資本主義、資本主義社会というシステムは、「成長」し続けることを前提とする。我々人類を包括する地球という有限性を前に、こうした成長の嘘っぱちはすぐに暴かれて、その構造など容易に瓦解しそうなものだが、貨幣と金利という発明によって、また国家を巨大金融機関に仕立て上げ、国民を奴隷化することによって、生き長らえている。

そう、我々は現状、真の民主主義など初めから成立し得ない社会に暮らしている。
国家は制御を容易にするために、国民が無知蒙昧であり続けることを望む。「広告」はそのための有効手段である。政府意見広告の多さ、そこに費やされる多額の金(国民の血税!)、また政府御用達企業に支配されたマスメディアCMなど、その危険性や悪質さは故・天野祐吉が40年以上前から再三指摘していたが、この点において、国民の知性は劣化の一途を辿っているようである。

こうした実情が、僕のような音楽家にも具体的な問題として常に迫ってくる。
「成長の強要」は一人ひとりの思考の奥底にまで染み込んでいる。更には、中身があっても無くても、数字によってその評価が、誰にでも、特段頭を使わなくても、見やすくされてしまっているから、よく考えることは疎かにされがちで、それどころか、奴隷的な労働のせいで、考える時間などない状態に置かれている人も数多いる。彼らに、自分の人生を自分のために用いる余裕を持ってもらうだけでも一苦労である。
また幸いにして時間に隙間を、財布に余裕を作ってもらったところで、彼らのものの考え方まではなかなか変えられるものではない。
資本主義人は、結果が分かっていることにしか投資をしたがらない。「良いと言われている」ならまだいい方で、「知っている」「見たこと・聴いたことがある」が基準となる。それらが「広告」の結果であることなど意に介さない。

芸術はその衝動からして未来志向的である。
過去の膨大なサンプルから技を学び取りつつ、今はまだ存在しない何かをつくり出し、少し後の、近くの、そして遠くの未来に放つことを目指す。
そこには勝算などというものはない。目論見も算段もない。本人だって知らないでつくっている。つまり全くの手探りである。成功作の陰には数え切れないほどの失敗作があり、そうした失敗こそがしばしば作品に陰影と深みを与えるものである。
だから芸術の歴史には「異端」しか残らない。500年後の我々の目を驚かせ、300年後の我々の耳を熱狂させるなど、ほとんど奇跡としか言いようがないが、彼らは同時代の当たり前とは一線を画すことをやってのけたからこそ、今日まで生き残っているのである。そして恐らくは、その創造的歓喜も衝動も、屈託なく、純然だったはずである。この、ある種の「無償の愛」こそが、芸術を芸術たらしめている。

資本主義社会に生きていると、唯一無二性は瞬く間に尊ばれなくなる。何人死んだ、何トン獲れた…命すら数になる。
「芸術もどきの広告」が増えた。作り手は「芸術」だと信じているかもしれないが、その体はせいぜい「広告のような芸術」であり、中身は所詮「広告」である。が、資本主義に頭が侵されていると、この事実に気付かない。僕はこれを芸術における「教養」と呼びたい。作り手も純然ならば、鑑賞者も純然でなければならず、その点において両者の区分けはない。いずれも芸術の担い手である。

資本主義は人類史の中では割と最近生まれたが、もう死に体である。芸術は人類の誕生と同時に生まれ、ずっと共にあるが、生き延びている。芸術を殺すとしたら、それは上のような教養の不在であるが、人が変わればまた生き返る、というようにやってきた。
資本主義は死ぬが、芸術は死なない。当たり前のことである。

2016年11月22日火曜日

解き放ち

今朝のツイートにも書いたが、言葉は、話され、聞かれている時には、音楽的な耳で聴けば、それは音楽であり得る。
しかし音そのものは、概念からも概念化からも本来は解き放たれているから、音楽は言葉ではなく、言葉も音楽ではない。音楽が言葉に聞こえるとしたら、それは言葉的な耳で聴いているからであり、言葉が音楽に聞こえる時には、それは言葉を、意味からも意味付けからも自由に聴いているからであろう。

あらゆる事柄で、この「解き放ち」が、しばしば大きなインスピレーションとなる。
創造的な活動における行き詰まりの原因は主として、作り手自身にある、固定された何か、だ。

谷川俊太郎の詩に『コップへの不可能な接近』(『定義』より)というのがある。僕自身はこの詩が好きでも嫌いでもないが、「解き放ち」のための準備に必要なステップを示唆しているように読める。
「それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。…」と始まる。

例えばギターを初めて持った子どもをすぐにギター教室に通わせると、たちまち「メソッド」に則って、構え方から手の形、姿勢、音階練習云々を、否応なしに教えられる。しかし考えてみれば、そうしたありがたい「メソッド」は、先人ギタリストが試行錯誤を繰り返し、日々考え、実験し、試しては失敗しを繰り返し、やっと「この辺でよいかな…」と生きているうちに取敢えずは納得できる形にして遺してくれた、いわば「排泄物」である。この「排泄物」は固定化された記録であるがゆえに、情報として容易に流布するわけだが、同時に「化石的」であり、しばしば「固定化」の道具として用いられるもので、能動的に考え、試みる機会を、この手つかずの広大な可能性を持った新米ギタリストから奪ってしまう。

しかし、もし「先生」がいなければどうだろうか。
ギターは、谷川がコップを見たように、この子にとって、「くびれのあるひょうたんのような形をした箱に細長い板が連結し、そこに弦が張ってある…何か」として立ち現れるのではないだろうか。この新しい玩具の遊び方は無限であるようにさえ感じられるかもしれない。そしてこの子に音楽的な耳があるならば、その音楽的な美を体現するための音を、この玩具から引き出す試みが、早速始められるだろう。

「耳というのは音楽を聞くことで音楽的になる」と言ったのは林光である。
僕はこの考えには半ば賛同し、半ば疑問を持つ。それはつまり、すでに世間一般で「音楽」と呼ばれているものを、例えばW. A. MozartのシンフォニーやL. van Beethovenのソナタを、「立派な、本当の、ありがたい音楽」として聴くことだけが、音楽を聴くということではないから、である。

音を「発見」する時、音楽は始まる。